熱帯の知性
ブラジル国の日本人移民の初期の指導者として、南伯に東山農場の山本喜誉司。北伯に平賀練吉。敬称略は、歴史に名を刻む偉大な名前の証。
共に東京帝国大学で林学を専攻されているのは偶然ではない。
ブラジル国は日本人農業移住者を受け入れる111年前から、大農園の耕作放棄地は拡大していた。
豊かな土壌を使い捨てるサトウキビとコーヒーの地力略奪農業は、破綻する寸前にあった。サンパウロ市でもベレンでも同時進行のように、汽車の燃料たる薪の枯渇に二人の林学者は直面している。
そして農業開拓のはじまりから、薪炭林の造成を構想し、開拓者が一時的な経済的成功を焦らず、育林活動の定着する仕組みを、模索しているのだ。
その上で、拡大する耕作放棄地、砂漠化寸前の牧場跡地の地力を再生する農法を提案する。多種多様な植物の個性を学び、作物生長を予想する森林農法は、地力向上から知力向上へ、森林再生から水源創造をめざす知的集約産業であろう。
平賀練吉の慈父平賀敏は、慶應義塾出身の関西の代表的な財界人で、鐘紡、阪神急行電鉄はじめ数多く関与した事業のひとつに帝国鉱泉がある。
三ツ矢サイダーの前身である。アサヒビールと合併した今もなお、研ぎ澄まされた味覚の探求は、都会人のストレス解消の役割を果たしている。
平賀練吉は帝大卒業後、大阪営林局に着任していた。林業は現代では影が薄いが、戦前は山村に子供たちが活発に飛び回り、活気に満ち溢れていた。その経済活動の中枢に営林所があり、山官の権限と責任は、絶大であった。
北半球において森林は、均一な針葉樹の大森林を理想とし、人間関係においても、適度な距離を保ち合い、生長を競い合うという理念を確立させている。
一方、熱帯の森林は多様な樹種が混在し、樹木は各々個性豊かに孤高を保っている。精鋭樹は、種子を遠方に飛ばし繁栄する術に長け、決して群がろうとしない。
アマゾニアの原生林で、平賀練吉は、人知れず植物名を学び、木材標本づくりに励まれたという。未だ安定生活とは程遠い、移住地建設の指導の激務の中に。
終生、決して苦労を語らぬ平賀練吉 も、唯一の心のこりは、第2次世界大戦中の焼き討ち事件により、木材標本をすべて焼失してしまったこと、と伝え聞く。
胡椒の里トメアス移住地の始まりは、多種多様な樹木とのめぐり合いに在る。
日系人住居の特徴として、木製外壁の板が地面に水平な「横張り」であり、ブラジル人の住まいは、掘っ立て小屋式の「縦張り」が主流である。縦張りの方が施工は楽だが、空調機能と耐久性にとぼしい。
移住地の病院、小学校、移住事業団官舎すべてに感じる、どこか温かく、懐かしい明治のかほり。
それは、日本人移民の安易な土着を許さない、誇り高き定着への覚悟を物語る。
移住事業団の官舎が、熱帯樹木を活用しながらも、祖国の営林署に見えてしまうのも面白い。熱帯林に溶け込む日本型コロニアル建築と表現したい。
初期のアマゾニア移民は当然、自分の耕地から建築用材を探し出さねばならない。山焼き前に全精力で樹木を探り、斧を振るう。掌は、皮がむけ、血に濡れ、斧の柄と一体化する。そして樹幹を玉切りにして、人力で担ぎ出し、製材する。
高級建築材、工芸用木材は、非常にアクが強く、火が入ると真っ先に燃焼する。胡椒栽培に必要な支柱材アカプー は、家族総出の担ぎ出しだ。支柱一本の長さ3m、60~80キロの支柱は、森の中で、楔や斧で割られて搬出された。
胡椒栽培の全盛期には、ブラジル人の木挽職人も頼もしく育っている。
例えば、長さ4mの日本人向け規格の矢板の木挽を請け負う。一日働き矢板24枚を挽き、黒フェイジョン50キログラム相当の日当は、職人技に相応しい。
熱帯アジア、インド南部で発展した木挽技法と推測する。ただしトメアス移住地では、この木挽作業は森の中、涼しい環境の有り難さを日本人移民は、学ぶのだ。
枝葉、樹皮、辺材、鋸屑は、すべて森の中に留まり、驚く速さで微生物に分解され、土に還る。製材歩止まりは、総合100パーセントとなる。
コショウ栽培が全盛期を迎える頃、新しい耕地を伐り拓く屈強な杣人集団も現れる。原生林1ヘクタールを、伐開するのに、黒フェイジョンで160キログラム。5ヘクタール拓いて、ゼブー牛1頭分の賃金。木挽職人と比べ、勇壮だが、粗雑な仕事になる。
牛2頭を養うに、3ヘクタールを要する風土にあって、日本人農家の開拓規模は、あまりにささやかと、ブラジル人の牧場主つまり地元の政治家には映るだろう。
ただし、アマゾニアの風土に適合する牛はゼブ種、のんびりしたインド原産だ。
開拓の初期に適合作物に恵まれず、日本人は、地力と刃物の消耗の早さに圧倒されつつ、熱帯の鉄文化の合理性と巡り合い、熱帯の知性を習得してゆく。
鋭利な刃物の刃こぼれを修復し研ぎ直すには水と砥石を使い、数時間を要するが、柔らかな刃物ならば、レンガや陶器の底にて簡単に研ぎ直し、すぐに作業に復帰できるのだ。農具も機械も人体も、早め早めの修理こそ、熱帯に生きる知恵なのだ。
度胸と根性それから努力
日本人移民の開墾速度は、ブラジル社会では、ゆっくりさんに受け取られた。
山焼きの規模も、4~5ヘクタールで壮大なものになる。
アマゾニア開拓の華として、山焼きをイメージすることは多いが、原生林内の測量と入念な植生調査こそ、日本人の開拓者の誇るべき度胸である。
GPSもシャープの電卓もカシオのGショックもない時代。答え一発などあり得ない。原始林内は縦横無尽に走る河川と直径2m級の倒木が存在し、ヘビやハチ、サソリその他、毒虫の不意打ちにも注意していなければならない静かなる戦場である。
測量して改めて知る事は、アマゾニアの河川流域は、起伏に富む土地である事だ。
パウサントのような工芸木を傷がつかないように、注意深く原生林から担ぎ出し、コショウの支柱と住宅建材を択伐し、担ぎ出すのは、開拓農民の根性。
山焼きは一瞬のお祭りで、その後の寄せ焼き、伐根と整地から農家の努力は始まる。この度胸と根性と努力の積み重ねこそ、日本人の至誠(まごころ)の原点となる。
自ら伐採作業にあたる日本人の木工職人が、腕に磨きをかけ、本格的な仏壇までも製作する状況になると、原生林の存在は、怖れ多きものとなる。
坂口和尚は率先して農園に立ち入り厳禁の区画を設け、トメアス移住地に残存する原生林の保護に生涯を捧げている。郷里の偉人・南方熊楠の影響は極めて大きい。
坂口陞は、東京農大の林学科に学び、森林の生態、利用、経営を科学的に捉える教養を身につけているが、移住してからの応用と実践は際立っている。
坂口和尚の大学4年次、卒業の関門に、会計学があった。最終試験は、たった1行。「各自将来の職業を想定し、親から受けた学業資金の返済に要する年月を記せ」。
各自事業を興すも、エリート公務員を目指すも、金利も全て自由な出題である。
若い農大生は、思い想いに、将来の成功を夢想しながら、恩返しのつもりで利子の計算を入れて算出したという。
しかし、教授は、具体的な返済年月を算出した学生全員の解答に、怒りを大爆発。
「貴様ら、親の恩をはかるとは、大馬鹿野朗だ」「親の恩など返済などできるわけが無かろう」と、凄まじいカミナリを和尚は懐かしむ。
その罵声を胸に、はるばるアマゾニアに移民してみれば、パトロンの存在は、肉親そのもので、大学出の若造ごときが「パトロンに恩返しなぞ、生意気だぞ」という気風に満ちた、荒々しい開拓最前線を思い知る。
恩返しの暇があったら、後に続く若者の面倒を見ろという激情こそ、当地日本ブラジル文化協会の原動力である。
タケの潮騒
アマゾニア全般に日系農家の入り口付近にタケの茂みをよく見かけるが、始まりは南米拓殖の研究陣がもたらしたもの。開拓の始まりには、養蚕とカカオ栽培を経営の柱とすることも企画していた。蚕さんの巣づくりには、おびただしいタケ材を必要とする。カカオの果実の収穫にも、小さな鎌を装着した槍の柄として、軽く、強靭で、手に馴染むタケ稈にまさる素材は無い。
そのタケは、ブラジル在来種ではく、日本のタケでもなく、中国南部原産のバンブーである。海の覇者ポルトガル人がもたらしてくれたのだ。
移民博物学者・橋本悟郎をとことん混乱させたのが、この種の外来のバンブーの繁茂と拡散、土着にあり、ブラジル在来植物の探査に発奮した要因なのだ。
アサイザールの試験場にも数多くのタケ苗がサンパウロ方面から嫁入りしている。そしてタケノコの美味しい品種は日系農家の食卓を飾り、奥地に拡散していった。
アカラ植民地では、その創設初期から墓地の管理は、安芸門徒の方々に護られ、お盆の集いは、ブラジル国のお盆の11月2日に執り行われる。
お墓にタケの花入を添えるのは、子供たちの重要な役割であった。
かつて広島県の子供の習俗として、お墓参りに、竹筒の花入の径の太さを競ったという。花入の竹筒の太さに、ご先祖様は喜ぶのだという。
アジアの海洋民族にとって、タケは船の素材としてばかりでなく、天地の霊を受信する通信機であり、民族楽器の製作によく活用されて来た。
時代は下り、サンパウロ市のアミノ布団店は、北伯への商品配達に、タケノコの美味しいタケ苗も一緒に搭載し、ベレンへの街道を北上していったと言う。
中空植物のタケには、カンピーナス東山農場の山本喜誉司の情熱も偲ばれる。(つづく)