さらに、工藤一成さんの強い意志とリーダーシップは同市の日系社会にも影響を及ぼした。イガラッペアスー日伯文化協会三十周年記念誌には、次の通り記載されている。
《イガラッペアスー日本人会発足を目指す有志の間で工藤一成に相談しようということになる。工藤は移住後間もないが日本在住中に長く青森県会議員を務め、県会議長まで務めた事があり、経験が豊富であったからである》(イガラッペアスー日伯文化協会三十周年記念誌31頁)。
一成さんが設立趣意書、定款作成などを行い、さらに一成さんの指導の下、ギダウテ・アウヴェス・デ・アウメイダ市長に土地を無償で提供するように交渉し、1976年に会館が落成した。
一成さんは、文協初代会長、日本語学校の初代校長を歴任。その様々な功績により1977年に叙勲を受けているが、同年5月8日に70歳で亡くなった。
栄子さんは、「義父は何としても自分の意志を貫くというタイプで、反骨精神の強い人でした。いつも浴衣を着て、杖を持っていました」と語る。
さらに、記者に一成さんと建立された同氏の胸像が写った写真と共に、一成さんが受け取った「頌徳の文」を送ってくれた。それには、次の通りに書かれている。
《吾等の組合長工藤一成氏は貧農の家に生まれ苦学して倦まず。高い見識と逞しい実行力により若くして町議会議員三期副議長となる。
更に県議会議員連続四期。県農協中央会理事、県経済連理事などを歴任す。昭和二十九年マッカーサー指令による公職追放の解除を見るや、町農業委員会長七期。更には当時七戸町農協が貯金凍結、供出米代金支払停止等のため、組合の組織が正に崩壊せんとしていた危機に、この組合の長として強く推されて就任。
爾来(じらい)昭和四十七年の今日まで連続八期。拾九箇年の永きに亘り終始一貫赤心。組合の再建と発展のために心を砕き、遂に事務所其の他の新築数棟。拾数億円余に及ぶ取扱。組合資産内容の強化充実等。見事に難局を克服した。
今組合長が辞め、ブラジル国に移住して人生の再出発するに当り、茲(ここ)に、その偉業を讃え、追慕し、その志を永く記念し、継承せんがために吾等相計り、胸像を建立する。敬白。昭和四十七年十一月十三日》。
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トメアスーの式典会場で、同船者との感動的な再会を果たした尾西貞夫さんは、ベレンの式典会場でも同船者との再会に胸を踊らせていた。
ベレンの式典で、パラー州政府から叙勲を受けた町田嘉三(よしぞう)さん(73、茨城県)は、尾西さんの同船者だ。空手家で、NHKドキュメンタリー「移住50年目乗船名簿」では、移民船の中でひたすら稽古をする町田さんの姿が流れている。ベレン市で「町田道場」を開き、現在は息子達が後を継いで経営しているという。
4人兄弟全員が空手家で、三男の町田リョートさん(41、二世)は、総合格闘家として2009年にはUFCライトヘビー級世界チャンピオンとなった。
「実は空手の試合などでよくサンパウロには来ていて、会ったこともある」と尾西さんは話すが、同船者の肩を叩く顔は微笑んでいる。町田さんも「今日は名誉ある章を受けるだけでなく、こうやって懐かしい同船者に会えるのは嬉しい」と喜んだ。(つづく、有馬亜季子記者)