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「縄文人の野生の力」を体感=函館、青森の5縄文遺跡を訪ねて=サンパウロ市在住 岡﨑祐三

大船遺跡に再現された住居跡

 「次回、訪日する時にはぜひ日本の縄文時代の遺跡を見てみたい」と思っておりました。「どのような遺跡がどこに在るのだろう」と調べますと、ほとんど日本各地にあります。
 その数の多い事。そこで最も古い遺跡、もっとも有名な遺跡で調べますと、最も古い物として出てきたのが津軽の外ヶ浜町の「大平山元遺跡」(約1万5千年前の土器片が出土)。最も有名な遺跡として、青森の「三内丸山遺跡」でした。どちらも青森県です。

亀ヶ岡遺跡の記念碑の横に立つ岡﨑祐三さん

 それで東北を調べてみますと、東北には縄文遺跡が数多く在り、今、道南(北海道南部)、青森、秋田、岩手連合で、縄文遺跡群として世界遺産登録を申請しようと準備をしている、との事。
 「登録されると観光客がどっと増えて、大変だろうから今のうちに見ておこう」と思い、函館の2遺跡(大船遺跡、垣の島遺跡)、青森の3遺跡(三内丸山遺跡、大平山元遺跡、亀ヶ岡遺跡)を見に行く事にしました。
 函館に2泊(ホテルパコ函館)し、大船遺跡(縄文集落跡地)、垣の島遺跡(貝塚)を見学。青森へ下り、大平山元遺跡(1万5千年前の土器片)、亀ヶ岡遺跡で遮光器土偶を見、三内丸山遺跡で、あの時代の大規模集落跡地を、と計画を立てました(青森に3泊)。

9千年前に作られた漆糸製品が出土した大船遺跡

 9月16日(月)、新幹線で新函館北斗駅へ。その後、在来線で函館駅へ。そこで観光タクシーを2日契約し、大船遺跡へ。着いたのが15時過ぎでした。遺跡の係官の人が親切に、「今日は祭日なので、函館縄文文化交流センターは明日振り替え休日になる。遺跡の方は明日でも入れるが、交流センターは入れないので、今日の内にそちらを見られた方が良いのでは」と教えてくれ、さっそく縄文交流センターの方へ行く事に。

亀ヶ岡遺跡の最寄り駅であるJR五能線木造駅(ごのうせんきづくりえき)は巨大な土偶のデザイン。夜になると電車通過時に目がピカピカするとのこと

 そこには数々の発掘品、出土品が展示されていた。あの時代の石器、土器、土器片、また墓からの出土品として遺体を包んでいたであろう漆糸製品も有り、その残存の漆糸を放射線炭素による年代測定(MAS)の結果、9千年前に作られた物と判定された、と。
 中国長江文明域で出土した漆製品で、最も古い物が7千年前の物です。漆の技術は中国から伝わった、と言われていましたが、本当はその反対では、と言われだしています。
 大船遺跡、垣の島遺跡は、縄文早期(紀元前約9千年前)から中期(紀元前2千年前)の長期にわたる集落跡です。100軒を超える住居跡や大規模盛土遺構(貝塚等)も在り、そこから種々の動物の骨や木々の実(クリやクルミなど)が見つかり、縄文時代の生活を知る資料ともなっているそうです。
 住居跡は幾層にも重なっていて、この集落が長期間使用されたと言う事も分かる。この地域が海や山の豊かな食料に恵まれていた為でしょう。住居跡は地面を楕円形、方形に掘って(1~2m)床とし、柱を立てた穴の跡、床には炉が設けられていました。
 奥手には、祭壇でもないですが、それらしく使用された痕跡があります。この集落の跡地に立ちますと、縄文人は、亡くなった人々や諸々の自然物を敬っていたのでは、と感じます。

遮光器土偶がでた亀ヶ岡遺跡

 18日朝、函館より青森に下り、JR五能線で木造駅へ。ここには遮光器土偶が出土した「亀ヶ岡遺跡」が在ります。
 ここでもタクシーを5時間5千円で契約し、最初に「つがる市木造縄文住居展示資料館」と「つがる市木造亀ヶ岡考古資料室」へ行きました。
 そこには出土した諸々の土器、土偶(ほとんどが中空)、石器、漆塗りの縄文土器、土偶、動物の骨、動物の骨での釣り針、小玉、装身具などが展示されている。
 その中に植物のこびり付いた土器があり、この植物を、炭素年齢測定法で測定した所、5900年前との測定値だったそうです。この時期になると土器、土偶も用途により実にいろいろな物が作られている。
 遮光器土偶(中空土偶)出土地を見学後、五能線木造駅へ。そこから鯵ヶ沢駅へ行き、今夜の宿「水軍の宿」へ。

多彩な出土品にビックリした三内丸山遺跡

 翌日(19日)朝9時ごろ「水軍の宿」を出て、五能線鯵ヶ沢駅へ。そこから青森駅へ。青森駅では、荷物をロッカーに預け、バスで「三内丸山遺跡」へ。入場券を買い、遺跡に入場。
 最初に案内のビデオを見る(約20分)。その後、ボランティアガイドに付いて、遺跡を回る。遺跡としてよく整備され、復元された住居もたくさんあった。もちろん発掘時のままの物も。又、土坑墓(成人の墓)、子供の墓、貝塚、盛土止めの杭などもある。

 屋外の遺跡を見学後、屋内である縄文時遊館へ。出展出土物の見学へ。その多さにびっくり。もちろん石器も多くあった。いろいろな用途の土器を考え、作り出しても、狩猟や料理などには石器も使っていたのですね。青銅器が出てくるまでは。石槍、石匙、石鏃、削り器、磨石、敲石、石皿、台石、砥石…。また、動物の骨や角で作った道具(針、釣り針…)や諸種の装身具(石製、骨製、角製、土製…)。見る物が多すぎて困るぐらいでした。
 夕方になり閉館案内のアナウンスを聞き、三内丸山遺跡を後にしました。バスで青森駅へ行き、ロッカーに預けていた荷物を取り出し、予約してあったホテル青森へ行きました。ホテルに入り、シャワーを浴び、一休みして夕食に出る。美味しいラーメンを食べた後、ブラブラしながらホテルへ戻る。

1万5千年前の土器片が出土した大平山元遺跡

大平山元遺跡に出土した石器の展示

 20日9時半ごろホテルを出て、青森駅へ。10時15分青森発のJR津軽線で大平駅へ向かう。津軽線は単線です。平時は乗り降りの人も少ないので、戸口の所にある「ひらく」「とじる」のボタンを利用者が押し、戸の開閉をするようになっている。冬は非常に寒いので必要のない戸を開けないようになっているそうです。
 大平駅に到着し、「ひらく」のボタンを押して開け、下車。駅は無人駅ですので人はいません。付近を見渡しても人は見えずです。人家は結構あるのですが、まるで無人の町のようです。
 これで、大平山元遺跡はどこに在るのだろうと、心配になりました。ですが、「歩いて行けばその内にだれかに出会うし、看板もある事でしょう」と大きな通りの方を目指して歩きだしました。大きな車道に出、150メートルも歩いた所で、道端の地蔵堂にお供えをし、お参りしているお祖母さんを見つけました。お参りの終わるのを待ち、遺跡への道を尋ねました。
 「近くにそのような物あるとは聞いているが、どこなのか、はっきり知らない」との事。「そうそう、この道の向かいに元小学校がある。そこが今ふるさと資料館になっているので、そこの人は知っているでしょう」との事で、「大山ふるさと資料館」を尋ねました。
 案内を請いますと事務所の人が出てこられましたので、そこで遺跡への道順を尋ねました。その時丁度、一組の夫婦の方が出てこられました。
 事務所の人が、「この方達も、ここの遺跡、資料館を見学に来られた方で、この後に亀ヶ岡遺跡へ行かれる」と紹介してくれました。
 ここは良く見せて頂きましたので、これから亀ヶ岡の方へ行きます、と挨拶されて出て行かれました。
 事務所の方が、この後、遺跡の方へも行かれるのでしたらと、地元の学術委員の人に連絡してくれました。1時間ぐらいで来られるとの事ですので、私たち2人は写真を撮る許可を頂き、資料館を自由に見学させてもらう事にしました。
 最初に見させてもらったのが、1万5千年前の物と、炭化物年代測定法で出ました土器片。それから諸々の石器(石斧、石鏃、彫掻削器、石刃、細石刃核、彫器ナイフ、掻器…)。
 一口に石器と言ってもその用途により、色々と工夫され多種の物が作られている。また、その材の石にしても、北海道産の黒曜石(火成岩)、地元(蟹田川流域)産の珪質頁岩(堆積岩)、等々。また材料を貼り合わせるのに秋田産のアスファルトが用いられていた。縄文時代の人達も色々と考え、工夫をされていたと解る物でした。
 いろいろと写真を撮らせて頂きましたが、その中の1枚、大平山元遺跡の1万5千年前の土器片が出土した所の、あの時代の想像図ですが、蟹田川に面した台地での生活の様子です。川面より2~3mほど高い所での生活、やはりあの時代も水害に対する注意が必要だったのでしょうね。

何もない原っぱに立て看板、「ここから土器片」

大平山元遺跡では、何もない原っぱに立て看板に「ここから土器片」と書かれていた

 事務所の人が呼んでくれた遺跡の学術委員の人が来てくれたので、遺跡の方へ案内してもらう事に成りました。遺跡は資料館より500mも無い所との事で、いろいろな説明を受けながら歩いていきました。
 途中に八幡神社が在りました。神社入り口付近に猿田彦大神の石碑が一つありました。この八幡神社一帯も遺跡指定地の一部だとか。今でも神社の庭や周りを40~50cmも掘ると、旧石器時代の石器が沢山出てくるそうです。
 「どうして発掘しないのですか」と聞きましたところ、「いま、南北海道、青森、秋田、岩手で縄文遺跡群として世界文化遺産に登録するための仕事が沢山あり、発掘の方は、それが終わるまで一時休止して置きましょうと言う事に成っている」との事。
 土器片が出た所に着きました。何も無い原っぱの中心近くに立て看板、それに「ここから土器片」と書かれている。周りは普通の農地、農家。この原っぱ一帯も前に発掘したそうです。でもこの原っぱからは定住住居跡は見つからなかった。
 しかし、3か所ほど、火をある程度頻繁に起こしていた、と言う痕跡が見つかったそうです。
 学術委員の意見としては、「多分この場所には、鱒などが川を遡る時期に合わせて、それらを取りに来た人たちが、その期間ここを仮の住まいとしたのでしょう。そしてその時期が終わると他へ移動していったのでしょう」との事。
 「この地は川面より2~3m高いし、昔は木々も結構有り、石器用石材も、蟹田川近くで、豊富にあり、生活しやすかったのでは」との事でした。
 この大平山元遺跡の地に立ち、辺りを見回してみますと、何となく「縄文人の野生の力」と言いますか、その知恵と生活力を感じる事が出来るような気がします。これは大船遺跡においてもそうでしたが。
 今回の函館、青森の5カ所の縄文遺跡を回っての感想は、次の4点でした。
(1)縄文人達は、家族で助け合って生活をしていただろう事。それだけ生活環境が厳しかったのかも。
(2)用途により、本当に多種多様な石器を作っている。よりよい生活の為にいろいろと考え、知恵を出している。
(3)定住生活を始めてからは、家の中に神棚でもないですが、偉大な物を祭る、死者を祭る所を設けている。信仰心の始まりか。
(4)集落の周りに防御壁が無い。人同士の争いごとが無く、平和な生活をしていた。
 この旅、計画は、地図と遺跡情報を基にしてたてました。実際に動いてみますと実情に沿わない事が一杯ありました。
 その度に、いろいろ変更しましたが、「行く目的をはっきりさせ、行先を自分で決めたと言う事は良かった」と思っております。と同時に、このような日本人の心の持ち方の基本的な物は、縄文時代の縄文人にすでにあったのかもと思えました。