その起訴状によると正輝を含む390人の被告についてこのように提示している。
「サンパウロ在住の日本臣民は世界大戦でブラジルを含む連合軍に敗れたにもかかわらず、自国の敗戦を受け入れることができず、臣道聯盟の名の元に、秘密組織を形成した。臣道聯盟はすでに戦時中から存在し、知識力の低い同胞の間に誤った情報を流していた。ほかにもチラシ、印刷物、手書きの書で日本の勝利を伝えていた組織もある。混乱を引き起こし、疑惑を生じさせ、なかには祖国の敗戦を受け入れた同胞に危害を加える者もいた」
起訴状はつづく。
「しかし、臣道聯盟は組織において他より抜きん出ており、日本敗北を信じる同胞を暗殺するグループまで組織した。臣道聯盟が支部に送ったパンフレットには『ブラジルの港に日本政府の特派員を乗せた艦隊が入港し、ブラジルに平和をもたらす』などというデマが書かれていた。
調査が示す通り、臣道聯盟や他の秘密組織により始められ広まった運動は、今やテロ行為にも発展し、危機感をひろめている。彼らの組織に入らない日本人に銃を向け、同じ宗教観念を持つ者にさえ敵と見なしたら、戦いを仕掛ける。これはサンパウロ市ばかりか、奥地の政治的、社会的秩序を脅かす問題だ。
被告人は個人、あるいは組織を通じ、社会の安全をみだし、自分たちを受け入れた国にとって不利な情報を流し、日系社会がもとの生活にもどれるために努力した誠実な認識派の同胞を攻撃するため、自分の仕事を放棄までして、恥ずべき運動に加わった。
敗戦を受けつけない臣道聯盟の支部や他の組織の被告者たちは狂言的行動で、同胞であるバストスの溝部幾太、サンパウロ市の野村忠三郎、脇山甚作そのほか、古谷重綱など認識派の臣民がマリリア、プレジデンテ・プルデンテなどの奥地で殺害され、ブラジルの日系人社会を二派に対立させ混乱させた。その行為は社会に被害を及ぼし紛争を巻き起こした。それは国内に内乱の種を撒くことになったかもしれない。
したがって、条項第3号、16番及び1938年5月18日に発布された法令431番の条項第1号に基づき民事訴訟を起こすに至った。彼らは令が示すとおり、下記の証人による裁判を受けた後、刑法にしたがって有罪判決を受けることになる」
このようにして、ようやく起訴書が登録された。サンパウロ市管轄区、第1刑事裁判所で、12.649/49番という起訴番号がつけられた。起訴書1冊目の表紙には
「条項第3号、16番、付随、1938年5月18日、法令431番の条項第1号」、内訳、「検査局/ヨシザゴ・モンゴその他」と書かれていた。2冊目からは
「1953年1月5日、国令条項第15号1.802番」とあった。2冊目以降の表紙は法律が変わったため中味はそのままだが表紙だけ取り替えたのだろう。
1950年4月11日、起訴書が提出されて1週間後、アデマール・フェレイラ・カルヴァーリョ検事および、マノエル・トマース・デ・カヴァリァル検事による被告者の出頭命令が下った。