毎年年末に一時帰国するたびに痛感するのは、日本における昨今の高齢化の加速が著しいことである。留守中に届いた郵便物のほとんどは高齢者向けの様々な無料健康診断の案内ハガキや長寿医療に関する保健所からの通知だ。
それらはすべてが無料ではなく、二・三割負担で受信しなければならないものある。帰国が年末の寒い時期ということもあり、暖かいブラジルから帰ると必ず風邪をひく。総合病院、各診療所、町医者の待合には、インフルエンザの予防接種や肺炎球菌予防接種(有料)なども含めて、さまざまな病状を抱えた高齢者で溢れている。
9割方は高齢者といっていい。総合病院の隣には高齢者向け介護施設を併設しているので、認知症患者にへルパーが付き添っている。大声、奇声を上げる患者に対し、慣れない者は驚きと緊張でついその方向を見てしまうが、その場の来院者もヘルパーも看護師もすっかり慣れた様子である。
中には、「わしらもすぐにああなるんじゃ…」とひそひそつぶやく人もいる。患者はすべて年を取ればかかるであろう病気で来院している。高齢社会はそういうものだ、ということ教えてくれる場所である。
▼高齢化社会の深刻な「影」
数年前まで日本社会は、来るべき100歳時代に向けて、「イキイキ、元気元気で長生き」のアンチエイジングの華々しい標語を目標に掲げてきたが、高齢化社会ならではの深刻な問題が影を差しているようである。それは、独居老人、高齢者の運転事故、高齢者の攻撃性などである。
厚生省の調査によると、「独居老人」は1955年に4万5千人だったのが、2015年には380万世帯となった。
「高齢者が孤立」するとどうなるか。仕事や家族等の社会的な繋がりがなくなった高齢者の中には、孤独死、犯罪を犯し刑務所に社会的な繋がりを求めるようになる者もいるという。
またある医療専門家の報告では、40年ほど会社に勤続すると、その人の脳は会社で働くことで機能するということで「本質的な脳の何割かが使えなくなる」状態が生じ、理解力が低下、自分の経験だけを主張し、周囲に配慮や交際することが出来なくなる。
ここ数年には相次ぐ高齢者の運転事故が大きな話題になり、免許の自主返納、免許の年齢制限といった議論が活発になった。その一方で、実際「地方では車がないと生活できない」といった現実的な声も根強い。車がないと生活範囲が収縮し、だんだんと社会から隔絶されてしまうことになる。
老人精神科医の報告では、高齢者の攻撃性は、「年齢とともに感情のコントロールが難しくなる」とされる。高齢者が一人ないし配偶者と二人での生活を送る中、運動機能の衰えから行動範囲が狭まることや先進情報技術の進歩についていけなくなることで、社会から見捨てられたという思いを強くし、社会に対して攻撃的になる。「変化しつつある現代の社会環境に対する脳の反応」として「高齢者がキレる」という現象につながると述べている。
さらに加齢によって「性格の先鋭化」が生じ、若い頃気が短かった人がますます短気になるケースや、前頭葉機能の低下によって攻撃的になることが特徴として挙げられている。
それは、脳機能の低下が聴力や記憶力の低下をもたらし、その結果、他人の話がうまく理解できなくなることから感情を爆発させることに繋がる。また、「自分はまわりから大事にされていない」という愛情や信頼の飢餓感から感情が暴走してしまう高齢者が多くいると指摘している。
戦後、日本の高度成長を支えた労働者のための年金制度、健康保険制度が整備されていく中で、その「生産能力、肉体能力が下がる」高齢期は、「誰かに依存する時期」として暗く侘しいイメージが拭えなくなった。
自分の稼ぎは思う存分自由にできるという人は少なく、家族関係維持、自分の体力の減退、絶えず患うことで財産は減り、友人は次々と世を去って寂しくなり、親戚とも疎遠になる。
財産の問題は思いのほか難しく、子供との関係も険悪になる。自尊心の強い高齢者は何かしら、過去の輝かしい光の中から排除されたイメージ、取り残されたような侘しさは、誰しも感じているのではないだろうか。
多くの近代以前の社会において老人は「長生きをした」という事実だけで社会の中で一定の尊敬を集める。文字通り「一目置かれる」存在であることができた。
老人は、長寿はもとより、豊かな人生経験と知恵の蓄積で尊敬を勝ち得、「長老」は、社会集団の中で特殊な位置を占めてきたのである。
しかし、19世紀半ば以降、進歩した老人医療と高齢者数自体の増加によって、「老人」の姿は崩れていった。医療は、肉体的、心理的、病理学的な見地から、腰が曲がり、筋肉が衰え、皮膚に皺がより、致命的な疾病にかかりやすくなる老年の不可逆的な衰えに対して、医療を施すことを始めたのである。
その結果、健康で長生きという姿が社会的に定着した。本来の「あるがままに年を取っていく」ことが、なにかしら人生の敗北感を感じさせることにまでなってしまったのであろうか。
ついに行く道とは
かねてききしかど
昨日今日とは
おもわざりしを
この歌(「古今和歌集」)は、在原業平(西暦825ー880年行年55歳、平安期の歌人)が病になったときに詠んだという。
その意は、「(誰しもが)最後に征く道ということは以前から聞いていたが、(まさか自分にとってのそれが)昨日今日(に差し迫ったもの)だとは思いもしなかった」である。
改めて言うまでもなく、生・老・病・死の一本の道は、貴賤貧富の隔てなく、誰もが必ず通らなければならない。現代から千年以上も前に生きた高名な歌詠み人・在原業平にして尚、晩年に抱く感慨であろう。
▼強欲が所以に苦しむ老後
「私の老後、こんなはずではなかった」という思いは何処から生まれるのであろうか。
世界には多くの宗教があるが、仏教は自然の法則を信奉する。そして、人間にとって切り離すことのできない煩悩を鎮めようと、日々、心の修練につとめるのである。
それは何故かというと、人間は老若男女、戦争や天災のような折々の災難ばかりでなく、自分の心の中に刻々と生起する不安・落胆・欲求不満・愛情と嫉妬・渇仰といった「煩悩」に絶えず苦しむ。
何事か成し遂げたいという欲望によって、富や権力、知識や財産、子供を儲け、最高の住まいを建てる。その思いはエネルギーに変わり、結果は概ね実現されるであろう。
しかし、人間は決してそれで満足しない。金持ちはさらに稼ぐことを考え、高名な人が不安や心配事を抱かないということはない。人間の心はどんな贅沢な経験をしようと、それが消えてしまうのではないかという不安に駆られ、満足することはできない。すさまじい苦しみを解消し、失ったものを取り戻そうと悔やみ続ける。
社会的諸機関や医療などは問題の対処療法をしてくれるが、人間は根本的な精神状態(怒り・争い・むさぼり・妬み・楽)のパターン、やがて、人生の最後に来る老いと死によって全てが消える不安の悪循環から脱することはできない。
仏教は、そのような人間の心の状態を悟り、自然の法則に則って、あるがままに受け入れられるように鍛錬する、という教えである。凡人では、なかなかその悟りに到達することはできないが…
年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず
この有名な歌は、中国の唐代の詩人、劉希夷(りゅう・きい651~680?)の「白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代かわりて」と題した詩の第4節である。この有名な一文を現代語に訳すると、
「思えば、寒い冬が終わって春になると、昔年と同じように花は美しく咲くけれど、一緒にこの花を見た人はもはやこの世にはいない。若く、美しい君達に云っておこう。若いと云うがすぐ年老い、黒い髪も白くなってしまうのである」
それでは、年老いたら、もう若くはなれないと観念したそのときから、高齢者はどう生きたらよいか。
▼高齢になるとより個性が顕著になる?
アメリカの心理学者スザンヌ・ライチャード(Suzanne Reichard)は、老年期(65歳以上の人)の生き方や社会への適応は、個人の性格と深い関係あると考え、つぎのように体系化した。この検証は興味深いものではあるが、人間は非常に複雑な生き物であり、常に感情は複合的に露見するので、あくまでも高齢者の生活改善に用いられるべきものとして、一つの参考として紹介したい。
▼高齢者の性格タイプ5分類
また、誰もがタイプ分類のいずれかに当てはまるのではなく、複数のタイプにまたがる「複合型」になる高齢者もいる。とはいえ、良識のある人であれば、こうしたタイプ分けは「面白いけど、現実はもっと複雑」と考えるだろう。
(1)適応型―円熟型
自らの老いを自覚しながらも、それによって活動意欲を低下させることがないタイプ。過去の自分を後悔することなく受け入れ、未来に対しても現実的な展望を持っている。
老いによってできなくなることも、それはそれとして、新しい現実の中で満足を得られるタイプ。周囲が無理にアレンジしなくても、自分で自分の人生を進めようとするので、性格的な部分で、周囲が対応する負担が少ない。新しい通信手段も面白がって使える。
(2)適応型ー安楽椅子型(依存型)
受身的に、消極的に老いを受け入れるタイプ。自分はのんびりと、他人に依存しながら「気楽な隠居」であることを求める。積極的に新しいことには取り組まないが、誘われれば、新しい環境への適応もできる。
性格的な背景から、生活不活性病にならないように、活動的な物事への取り組みをうながす必要がある。スマホのような新しい技術も、それが自分を楽にさせる便利なものであることが理解できれば、使いこなせる。
(3)適応型―装甲型(自己防衛型)
老いへの不安と恐怖から、トレーニングなどを積極的に行い、強い防衛的態度をとるタイプ。なんとか若い時の生活水準を守ろうとする。スマホのような新しい技術も、使いこなせないと恥ずかしいという心理から、受け入れようとする。
責任感が強く、様々な活動を続けようとする。結果として無理をおし進めるリスクもあり、怪我などをしてしまうこともある。性格的な背景から、本人の「まだまだ、現役だ」という自尊心を傷つけることなく、無理はしすぎないように注意する必要がある。
(4)不適応型―自責型(内罰型)
過去の人生全体を失敗とみなし、その原因が自分にあると考え、愚痴と後悔を繰り返すタイプ。典型的には、仕事に一生懸命だった反面、家族をかえりみず、現在は家族から相手にされない状況にあることを嘆くような高齢者。
うつ病になりやすい。新しい技術にも適応しようとしない。いつまでも過去にとらわれることなく、反省すべきは反省しつつも、なんとか新しい関係性などを築いていく必要がある。
(5)不適応型―攻撃憤慨型(外罰型)
自分の過去のみならず、老化そのものも受け入れることができないタイプ。過去を失敗とみなし、その原因を自分ではなく、環境や他者のせいとして責任転嫁する。不平や不満が多く、周囲に対しても攻撃的にあたり散らすため、トラブルを起こす。
高齢者として他者から親切をされても、それをポジティブに受け入れられない。周囲としては、どこまで献身的に対応しても感謝されることもないため、サポートすること自体が困難。
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さてさて、あまりに恵まれた超高齢化社会に生きることになった私たちは、自分を叱咤激励して若さを保つことに執心するか、あるいは、あるがままの老いを受け入れて、ゆったりと過ごすか、それは自分が決めることである。しかしこの決断は一番厄介な選択と言えるだろう。
【参考文献】
Suzanne Reichard
Aging and Personality: A Study of Eighty-Seven Older Men
Ayer Co Pub、1962