ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=繰り返される首里城の焼失と再建=5度も火災に遭い、復活した哀史=サンパウロ市ヴィラカロン在住=毛利律子

特別寄稿=繰り返される首里城の焼失と再建=5度も火災に遭い、復活した哀史=サンパウロ市ヴィラカロン在住=毛利律子

正殿正面(2016年1月、Photo by CEphoto, Uwe Aranas, from Wikimedia Commons)

 去年の10月31日午前2時40分ごろに発生した、沖縄県那覇市の首里城が大火災に見舞われたニュースの衝撃から、およそ3カ月になる。

 その間、インターネットの動画などで正殿など複数の重要な建物が焼け落ちていく有様を目にするのは、特に沖縄出身者には、言葉にならない痛恨の極みである。

 首里城近くに住む親戚の話では、その日は、誰もが哀しみと恐怖でパニック状態に陥ってしまったそうだ。すぐに外国の報道関係者も混じって辺りが大混乱する中、野次馬から火事の原因に関する飛んでもない馬鹿げた憶測も飛び交った。

 例えば、沖縄のヤモリ(ヤールー)は、冷房の室外機の検電板の中の電線を噛み切ってしまうほど強烈で、その被害に遭ったことのある人が、自信たっぷりに「ゼッタイにヤールーのせいだ!」と断言する。

 ことが事だけに笑えぬ下世話な話の他にも、ネットに拡散して人々を感動させた次のようなコメントも話題になった。

 

「琉球王朝時代の方が何かを伝えたいみたい…」

 

 その全文を紹介すると、「このニュースを知って火災が発生した時間帯を見てびっくりしたんです。実はちょうど火災が発生した時間帯に涙が止まらなくなって(首里城が燃えていることは知らない)。しかも、明け方ぐらいまで涙が止まらない。なんだこれって思っていたら、ニュースを見てびっくりよ。

 んで、琉球王朝時代の方が何かを伝えたいみたい(国王かな? 顔が出てきているけど地位はわからない)。災いを首里城で受け止めることによって、沖縄県民や人々に被害がくるものを回避してくれたようです。

 首里城が燃えてなければ、人々に被害が行く大きな出来事が起きていたようです。

 ショックではありますが、守ってくれてありがとうございますと心で想って、ウートートすると彼らも喜ぶと思います」という書き込みであった。この書き込みは瞬く間に広がり、多くの涙を誘ったというのである。

 現代の一庶民が、「琉球王朝時代の方が何かを伝えたいみたい…」という表現を用いることが、私にはとても印象的であった。

 

貿易立国琉球の繁栄を象徴した首里城

 

 そこで、改めて琉球王朝から現代にいたる沖縄の歴史を読み返してみた。すると、首里城が今回の火事を含めて5度、焼失していることを知った。琉球王朝成立と首里城建立、焼失と再建の歴史的の概略は次のようになる。

 沖縄は「琉球弧」と呼ばれる島々の中の一つである。「琉球弧」とは、九州南西から台湾まで弓状に伸びている島々のことで、地理学上、北緯27度線を境にして薩南諸島と琉球列島に分かれるが、300余あるこれらの島々を琉球弧と呼ぶ。

 この琉球弧は、奄美大島、沖縄、宮古、八重山のグループに分かれ、その中でも沖縄本島が最大で、沖縄県に属する島は約150あり、その中で有人島は61カ所である。

 沖縄には、古くから大陸と日本の歴史が交錯し、北からヤマトの文化、南からメラネシア文化、そして中国、朝鮮、インドからの文化の流れを受けて、独特の文化が馥郁として育まれた。

 1911年、沖縄出身の歴史家伊波普猷(いは・ふゆう)の『古琉球』に注目した柳田國男は、日本人の祖先は黒潮に乗って南から移住したのではないかという仮説を呈示し、その黒潮の道を「海上の道」とよんだ。その説は、後に様々な学問分野で否定されることになったが、「南方からの文化の北上」という見解は重要な発見であると言われている。

 1510年、インドのゴアを占領したポルトガル人アフォンソ・デ・アルブケルケや、『東方諸国記』を著したトメ・ピレスなどは、文中で「ジャパン(日本)」「シナ」「レケオ(琉球人)」を明確に区別していることから、15世紀から16世紀の琉球の通行圏はほぼ東南アジア全域に広がり、また、足利幕府下の日本との交通もかなり密であった。

 さて、琉球王朝の成立は、沖縄本島で10~12世紀にグスク(城)時代が始まり、北山・中山・南山の三山時代の三つの勢力を制圧し、琉球全土をはじめて統一したのが、南部から兵をあげた尚巴志(しょう・はし)王であった。彼によって1429年に第一王朝が成立。ここに琉球は統一され、琉球王国が誕生した。この王統を「第一尚氏王統(だいいち・しょうし・おうとう)」とよぶ。

 この王統時代には、明国との冊封(さくほう・サップウ)朝貢体制や、東アジア・東南アジア諸国との貿易も積極的におこなわれ、海外進出が琉球王国の重要な外交政策として展開された時代であった。

 港のあった那覇は浮島だったので、そこから首里城とをむすぶ長虹堤(ちょうこうてい)が築かれたほか、波之上護国寺、円覚寺建立や龍潭(りゅうたん)の池建設、「万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)」がつくられるなど、首里城は琉球王国のシンボルとして着々と整備された。

 その貿易立国琉球の繁栄を象徴した首里城は、那覇の港を見下ろす「百浦添(むんだすい=すべての浦々を支配する)」と呼ばれた。

 以後、1879年3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球王国は滅び、沖縄県が設置されるまでの約500年の長きにわたり琉球王朝が君臨したのであった。

 この間に、史書や外交文書の編纂、漆器や陶芸、染色などの美術工芸、琉舞や組踊りなどの伝統芸能、宮廷料理など、色鮮やかな沖縄の伝統文化が生まれ、磨かれ、今日に継承されている。

 

1度目の焼失と再建

 

 首里城の一度目の焼失は、第五代尚金福王の死後に発生した王位争いであった。栄耀栄華を誇った王朝は、1453年、争いによる火災によって城内は完全に破壊された。

 一度目に再建された城の外観と構造は目撃記録として、「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていた。

 

2度目は1660年、3度目は1709年

 

 二度目の焼失は1660年のことであり再建に十一年の年月を要した。

 三度目は、1709年、正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。

 1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。

 王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になっていた。

 

4度目は沖縄戦で米軍艦の砲撃受け焼失

 

 4度目の焼失。太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、首里城は27日に焼失したとされる。

 今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。

 5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5千人が首里城の地下陣地で自決した。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。

 戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。

 戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は多くの人々の悲願だった。

 

1958年から再建、00年に世界遺産へ

 

 1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。

 1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元が始まった。

 1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われた。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで難航した。

 すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。なお、2014年に米国立公文書館から沖縄戦で焼失前の首里城のカラー映像が発見されており、それによると屋根瓦は赤色では無い事が判明している。

 一方、琉球大学付属図書館のウェブサイトで公開されている写真が戦前も黒い瓦だったとする根拠とされている資料の一つであるが、これはモノクロ写真に着色したものである。

 また、琉球王国では16世紀後半から中国系の灰色(黒)の瓦が焼かれていたが、17世紀末から赤瓦に移行し、灰色の瓦は燃料となる薪不足のため19世紀初めには生産されなくなったと推定している。

 1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。2000年(平成12年)には「首里城跡」として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。

 

5度目の火災が昨年、再建費用には200億円か

 

 そして史上五度目となったのが、2019年(令和元年)10月31日未明に発生し、正殿と北殿、南殿を全焼した火災である。(引用『ウィキペディア(Wikipedia)首里城』

 ある報道によると、1992年に再建されたときの費用は約73億円であったという。しかし、今回、正殿、北殿、南殿など7棟9施設が被害に遭ったので、推定約150~200億円ほどかかるということである。保険会社が文化財や寺社仏閣の評価額を算定するのは非常に難しいらしく、首里城の評価額は100億3500万円と算定していた。

 首里城を管理運営する「沖縄美ら島財団」は火災保険に加入し年間約2940万円を支払っているそうだが、保険会社が支払う保険金の限度額は約70億円で、これ以上が支払われることは無いとのことである。

 そのうえ、本来機能するはずの消火設備が機能しなかったことが分かった場合にも、補償に大きな影響が出る。今回の場合は建物だけでなく、約5千点の美術工芸品や文書なども含まれるので、どのように費用が賄われるか。昨年11月12日時点で、那覇市がクラウドファンディングで呼びかけた寄付金が6億円ほど集まっているということだが、200億円近い再建額には程遠い。

 因みに、国宝「姫路城」は、火災保険に加入していないということである。その理由は、「再建したとしても、もはやそれは姫路城ではない」のであるから、「絶対に燃やさない」対策に余念がない。「まさか」の事態は許されず、有事のための訓練を怠らないそうだ。

 人文地理学的に琉球王国は非常に重要な位置にありながら、独立王国の居城であった首里城は焼失と再建を繰り返した。そしてついに強制的琉球処分から沖縄県となって王国は滅亡する。第2次世界大戦で島は焼土と化し、戦後はアメリカ世からヤマト世へと歪んだ変遷を辿るが、その時代の流れと重なって首里城の焼失が繰り返されているのようで、悲哀と同時に不気味さをも感じるのである。

 しかし、何はともあれ、沖縄の歴史の象徴であり、また県民の心の拠り所である首里城の再建が一刻も早く実現し、壮観な姿を再び見たいと願うばかりである。

【参考文献】

★眞境名安興『沖縄一千年史』琉球新報社(1974年)