ところが母親が怒り出した。彼女は精神の病があるようだ。ときどき、子どもの服を取り替えるのを忘れる。正輝の子どもたちはこの女に気をつけていた。別に周りの人に危害を加える訳ではないが、変な行動に出たり、訳の分らないことを口走る。今回はとくに異常だった。「エントン セウ ジュンジ タメエン カガ(ジュンジだって糞垂れたじゃないか)」と奇妙に高い声でわめきながら、子どもたちを追い払う身振りをする。
ネナたちは声を合わせて「エントン セウ ジュンジ タメエン カガ」と女の口調をまねて、などもくり返した。もう、長いこと、こんなにおもしろおかしい目にあったことはない。このエピソードは彼らの間で何度も話題になった。おもしろくないことがあると、「エントン セウ ジュンジ タメエン カガ」と奇妙な声を出し合った笑い転げた。楽しむ機会が少ない子どもたちにとって、アイロニー(皮肉)とスカトロジー(糞便学)が重なったこのできごとは、かれらの気晴らしにおおいに役立ったことは確かだ。
セーキは相変わらず小鳥に熱中していた。小鳥は樹液を使ってつかまえた。
正輝が留置されていたとき家族を手伝いにきていた従兄弟、ヨシオに教えたもらったのだ。ヨシオも小鳥をつかむのが好きだった。樹液はたいてい田場家族が植えているパラミツの木から取った。木の根元に傷を付けそこから流れる樹液を集め、硬くなるのを待つ。翌日、それを細かく砕き、潰す。ときには歯でつぶしたりした。それを丸い玉にする。それを、小鳥が止まりそうな枝に置く。そこに小鳥が止まると足がくっついて飛べなくなる。動けなくなった小鳥を手でつかめばいいのだ。
セーキはパラミツの木を父親が気づかぬうちにもち出した小型ナイフで切った。そのナイフは巾が広く柄が象牙で、正輝が両足の親指の爪を切るのに使っていた。セーキはそれを房子が小麦粉の袋を使って縫ってくれたズボンの後ろポケットに入れて歩いた。後ろで交差したズボン吊りがついているので、だぶついていても、下にずり落ちることはなかった。ズボンはアキミツのお下がりなので、いつもダブダブしていた。
本も兄のお下がりで、その兄もマサユキのお下がりの本を使っていた。だが、セーキには本などなんの役にもたたなかった。本を読むのが嫌いだったからだ。
もう、4年生なのにまだ本がろくに読めない。二人の兄の後を行けばすでに州立高校に通っているはずだ。一年生のとき落第し、学校をやめるといい出したが、正輝は勉強をつづけさせた。成績はあいかわらずよくない。先生は「もっと勉強しないと、なにも覚えません」という意味の伝言メモを両親に送ってくる。だが、セーキは全然勉強しないし、全然覚えない。あるとき、マサユキを知っている先生が彼を呼びつけて、「お父さんが上の学校に進むことを強制しないなら、すくなくとも、小学校の卒業証書は差し上げます。でもお父さんがまだ勉強をつづけさせるつもりなら、落第させます」そう伝えるように言った。
正輝は気を悪くした。男子は全て勉学に励まなくてはならない。そうすることで、将来が開ける。「学歴なしは出世なし」息子たちにこう言って、学業に力を入れるよう言いつづけてきた。だが、この言葉はセーキには通用しなかった。一年生のときから成績が悪く、しっかり覚えさせることは無理だった。算数などほとんど理解できないまま過ごしてきたのだ。
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