夕食のあと、みんながまだジャカランダのテーブルにいるとき、話を切り出した。今回は質問とか提案ではない。ツーコが勉強をつづけるべきだとはっきり宣言した。ブラジルでは女の子も勉強する義務があり、その子たちと同じ条件をツーコにも与えるべきだ。マサユキはまだ14歳の少年だが、どうどうとした態度が父を驚嘆させた。下の子どもたちは兄の態度を奇妙に感じた。母は大変なことが繰り広げられるのではないかと、話題をそらすため「もう、決まったことじゃない」と息子に話を打ち切るよう命じた。ところが正輝が口を挟んだのだ。「たしかにもう決めたことだが、もう一度考えてもいいな」
父はそのことについて十分検討していたのだ。ブラジルに永住する決心をしてから、日本移民の習慣や生き方を変える覚悟をしていた。たとえば、家族が日本語だけで話すこと(沖縄人の場合、沖縄方言で話すこと)。ブラジル社会に溶け込みやすくするためにはポルトガル語をきちんと習得させることが大切なこと。もう一つは日系社会の女性を低く見るという習慣。これはブラジル人が受け入れない習慣なのだ。ネナのとき、正輝はまだはっきりとした考えがなかった。だが、あとの二人の娘については、時がきたら真剣に考えようと思っていた。ところが、その時がきても、なにもせず、解決を先延ばししようとした。
もし、長男の意見を無視していたら、ツーコについてもうやむやに終らせていただろう。正輝は長男を医者にしたかった。ヴァンベルト医師のことが頭にあった。同医師は房子の不妊問題を解決し、マサユキの名付け親になってもらった。寛大で、経済力があり、知識人だった。つい最近、推理小説「苦悩の農園」を出版したばかりで、周りの人たちに好感をもたれていた。正輝もこの医師のようにマサユキが社会から評価を受け、経済的に恵まれるようになって欲しいと願っていた。
もし、それが実現すれば長く、苦しい運命にほんろうされた彼の人生も敗北におわらず、むしろ、勝利のうちに生涯が閉じられるとさえ思えた。政治的、経済的、家庭的問題にふり回された人生も息子の成功で、全てが帳消しとなる。それは自分の成功につながるのだ。しかし、アララクァーラには薬科大学しかなかった。息子を成功させるには、よりよい勉学の場が必要だった。そのためには、都会に出なければならない。そこにこそ成功の鍵が潜んでいるのだ。正輝はそう考えた。
ちょうどそのころ、日系社会は大きな式典に沸いた。1950年2月のおわり、ブラジルに水泳選手団がくると発表されたのだ。2年前のロンドン・オリンピック大会で金メダルを獲得した日本の選手団だ。金メダル獲得にはいろいろな意味があった。
まず、日本と西欧の国交の再開。もう一つは敗戦に打ちのめされた国民の高揚感を証明したのだ。オリンピック大会で、素晴らしいタレントを持つ選手が現れるのは確かだが、金メダル獲得可能な選手団を養成したことは国の能力、気力を示したことになる。村山修一、古橋廣之進、橋爪四郎、浜口義博たちはその優れた技によって「飛び魚」と呼ばれていた。遊佐正憲を団長として、日本の誇り高き「飛び魚」がサンパウロにやってくる。ブラジルの第18回水泳大会に出場した選手たちと、パカエンブ競技場のプールで競技するのだ。