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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(201)

 「飛び魚」が到着した1950年3月4日ほど、コンゴニアス空港に大衆が集まったことはない。6000人以上の日本人、その子弟そしてブラジル人が迎えに出た。10年前、戦争が始まって以来、はじめて自由に、喜び溢れて集合できたのだ。日系社会に出回っていた雑誌「読み物」はタイトルにこの時の様子をこう記した。「燦々たる日伯の金字塔」彼らは胸に小さな日本の旗をつけていた。ブラジルの国に大歓迎でむかえられた選手たちの胸の日本国旗は競技場の大勢の観客にはつい最近までつづいていた苦悩と侮辱の日々を忘れさせるに十分だった。最高の喜びの時といえた。
 正輝も「飛び魚」の来伯を歓迎した。なにより嬉しかったのは子どもたちが興味深く報道に従ったことだ。マサユキとアキミツは選手たちの到着のようすを新聞で読んだ。飛行機から降り立つ選手たちの写真に心を躍らせた。
 とくにアキミツはそのころ「ガゼッタ・スポーツ新聞」の熱烈な読者だった。その後、かれは「ラテン・アメリカで一番購読者の多い新聞だ」といったほどだ。兄弟は選手の名前を口にしたがいつも「古橋、橋爪、浜口、村山」の順だった。そして、古橋は世界記録を出した。
 奥地遠征のさい、「飛び魚」はマリリアで競技した。マリリアは日本移民が集中しているところで、自由渡航の移住者の子弟、岡本哲夫が出場。後に彼はブラジルにオリンピック銅メダルをもたらした。毎日ブラジルの情報機関は選手たちの動向を報道した。
 日系社会に最も関心があったのは来伯して3週間後の3月23日の夜の出来事だった。ブラジル水泳選手権大会の初日だ。パカエンブのプールの観客席はほとんど日系人で埋め尽くされた。夜9時、憲兵音楽隊の軍隊行進曲のあと、アデマール州統領がレオノル夫人をともなって現れた。正輝は「いかにもアデマールらしい」と思ったに違いない。彼は州統領が何年か前、日系人と連結したこと、そして、反共産主義者だということでアデマールを支持していたのだ。
 初めにアナウンスされたのは日本、つづいて他の州、お終いに開催主であるサンパウロのチームが呼び出された。ブラジル国歌が斉唱されるなか、州知事が国旗を掲げた。一瞬、静まり返り、そのあと、州知事はもう一本の旗竿に移り、君が代が歌われるなか、日本の国旗を掲げた。多くの観客者が啜り泣きしたが、それも当然だったろう。長いあいだ、公共の場では聞かれなくなり、ブラジルではもう聞くことができないのではと思っていた国歌だったからだ。正輝をはじめすべての移民にとり、苦労、虐待、忍耐、失望、心痛から解放された一瞬といえる。水泳大会の開会式のように日本とブラジルが肩をならべて歩き始める新しい時代が始まろうとしていた。未だに平和条約が結ばれず、国交も快復しておらず敵国でありながら、二つの国の国民は仲間だということを確認しあったのだ。
 正輝の家族をはじめ多くの移民家族にとって「飛び魚」はまだ復旧中とはいえ、新しい日本の象徴となった。敗戦した日本を恥じることはない。
 むしろ復活した日本を誇るべきなのだ。正輝や他の移民が抱いた夢を復活させるのは不可能だが、祖国の敗戦がもたらした挫折、失望を癒すのに役立ったことは確かなのだ。