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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(206)

 けっきょく、新しい家でのはじめての食事は房子が出発前にアララクァーラでつくって旅行中ずっと膝に抱えてきた弁当で間に合わすことになった。みんなが腹を満たす量はなかったが、空腹をごまかすことはできた。

 ドン・ペドロ・プリメイロ大通りはまだアスファルトが敷かれていなかったが、バスは通っていた。ピレス区とルジッタ区からくるバスが家の前を通る。家の前の大通りのはじめまで行き、左に曲がるとサントス・ドゥモン街に入り、イピランギーニァ街のすこし手前で洗濯屋のある150メートルほどのセナドル・フラケルの角を通る。
 バスに乗るには50メートルたらず歩けばいいのだが、引越しの翌日、夫婦と3人の息子は歩いてサンジョゼ洗濯店に向かった。みんなの往復のバス代がない。それに家から洗濯店までの距離はマッシャードス区からアララクァーラの中心街までの距離よりずっと短く、5人は楽に歩いて着くことができた。5人とも働きながら、仕事を覚えなくてはならない。
 マサユキは松吉の家に泊めてもらっていたとき、ネウザ洗濯店で仕事を習った。上着、ズボン、ワイシャツ、スカートに蒸気アイロンをかける仕事だ。蒸気アイロンにはみんな度肝を抜かされた。アララクァーラのような田舎町でもアイロンは家庭にゆきわたっていた。けれども、蒸気アイロンははじめてだった。マサユキがアイロンの握り手のボタンを押し、突然蒸気が出たとき、セーキはびっくりして飛び退いたほどだ。
 マサユキは父をはじめみんなに上着のアイロンのかけ方を教えた。
「カシミア製の服にはこの白い布を置いてアイロンをかけること。直接アイロンをあてるとピカピカ光り、お客さんがもうこなくなってしまう。まず、袖から始める。縫い目にそって、表側にしわが寄らないようていねいにかけ、ふっくらと仕上げる。次は肩。内側にこのクッションを入れてアイロンを当てる。襟の織り目がウエストまで行かないよう気をつけること。だから、アイロンでおさえるのは首周りだけ。襟の前面にすじや皺がつかず、折り目をふんわり見せるためだ。左右同じにするのは勿論だ。あとはこのアイロン台にはめて。他の部分を仕上げる」
 洗い終わって籠に入れられたズボンやスカートなども、アイロン台を使ってていねいに仕事をするように指示した。けっきょく、アイロンの仕事は3人の兄弟が当たることになった。
 洗いは正輝と房子が受けもった。洗濯店の裏のほうに店の持ち主で、朝市で働くシリア人のマニールという男がすでに洗濯場を持っていた。しみを取るベンジン、固形石鹸、大きい2本のブラシ、水槽がふたつ。ひとつは洋服を浸しておき、もうひとつは洗濯用の水槽だ。これらが洗濯業を営むための必需品だった。
 乾燥には日に当てるためハンガーにかけ、たくさんの洋服を吊るせる長くて太い棒をつかった。棒は上下2段あって、上の段に吊るには上をむいた鉤が先に付けられた竿をつかった。ネナは乾かすための服をすごいスピードでハンガーにかけ、棒に吊るした。マサユキは普通のハンガーより吊るところが長く、巾の広いのを「庭用のハンガー」と説明した。この方が干すために棒に吊るすのにも、乾いてから棒から下ろすのにも都合がよかった。ふつうのハンガーと違うのは、ズボンをぶら下げる細棒がないことだ。