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復興する福島を海外に伝える=移住者子弟の受入研修=(5)=無念の想いから震災を語り次ぐ

 「あの時、どうしてすぐ逃げなかったんだろうって…。9年経った今も心に残ってるんです」。相馬市伝承鎮魂祈念館で、語り部の五十嵐ひで子さん(72)が、そう後悔の念を口にしたのを聞き、胸が痛くなった。
 穏やかで広々とした海が見える場所で、バスが止まった。少し歩くと『相馬市東日本大震災慰霊碑』と彫られた大きな黒い石碑が目に飛び込んでくる。ここには、震災の犠牲となった市民458人の名前が刻まれている。そのすぐ横に鎮魂祈念館は建っていた。

相馬市の犠牲者458人の名前が刻まれた慰霊碑

 大津波の犠牲となった458人のうち1人は、五十嵐さんの夫だ。当時彼女は相馬市の海岸沿いで民宿を経営していた。午後2時46分、「ドッカーン!という物凄い音がして、何かに掴まっていないと動けないくらい強い揺れだった」と生々しく語る。
 地震が収まった後、何度か海の様子を確認しに行ったが、すぐには逃げなかった。しかし、車で来た消防団の人に「今岩手、宮城に物凄い津波が来ているから、早く逃げて!」と言われ、避難の準備を始めた。地震から1時間が経っていた。
 「その時、空は鉛色みたいな色だった」。恐ろしさに右手に叔父、左手に夫と手を繋いで道路に出たその時、何気なく見た後ろから津波が押し寄せてくるのが見えた。
 動けず立ち竦む3人に、波が容赦なく襲いかかってきた。波に体が持ち上げられ、慌てて隣の家の松の木に掴まった。
 荒れ狂うような津波の勢いは凄まじく、五十嵐さんから叔父の手を否応なく引き剥がし、ついには夫の手も――。
 「ひでこー!」と名前を3回呼びながら流される夫に、「お父さん!」と叫んだが、自分も流されてしまった。
 これが夫を見た最後だった…。
 どんどん流される中、「いやだ、おら死にたくねぇ」と大きな丸太に掴まった。気づくと、体は瓦礫の中に埋まっている状態だった。必死に「助けて!」と叫ぶと、消防団の人に救助され、気がついたら病院だった。

五十嵐さんの経験を真剣な顔で聞く研修生ら

 「あの時『父ちゃん、早く逃げっぺ。なんかおっかねぇど』という言葉が出ていれば」。この無念の想いから、震災で得た経験や教訓を語り継ぐ語り部の活動を始めた。

 五十嵐さんは、「皆に一番言いたいのは、自分の命は自分で守ろうということ」と身振り手振りを交えて強調し、「今日聞いたことを家族、友人に伝えてほしい」と訴えた。
 最後に五十嵐さんは、全員と力強い握手を交わして微笑んだ。被災者の経験を直接聞いたことに、アルゼンチンから参加した寺島メリサ・シュウさん(21、三世)は「こんなに詳しく聞いたのは初めてでショックを受けた」と震災の現実を重く受け止めていた。
    ☆

Jヴィレッジでの記念写真

 鎮魂祈念館から次の見学先、1997年に日本初のサッカーナショナルトレーニングセンターとして開設したJヴィレッジに向かった。
 サッカー日本代表がチームの合宿などを行う場として利用されており、南米勢だと02年の日韓W杯でアルゼンチン代表チームの合宿場になった他、07年、09年にはチリ代表チームも利用した。
 だが東日本大震災や原発事故で営業休止し、福島第一原発からわずか20キロの距離にある関係で対応拠点として政府及び東京電力株式会社に使用されていた。その役目を終えて18年7月に再始動し、新たに高級ホテルと全天候型練習場が整備された。

聖火リレーのスタート地点となるJヴィレッジ

 東京五輪では、福島県の復興のシンボルとしてここから聖火リレーのグランドスタートを実施する。
 施設を案内してくれた福島県エネルギー課主幹今里英生さんは、「是非サッカーが強い南米の皆さんは『Jヴィレッジがオススメ』とアピールしてください」と笑顔で手を振っていた。(つづく、有馬亜季子記者)

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