南洋から南米へ――海外雄飛する日本人の勤労の美徳は、進化を続けている。
モーレツな奥地前進主義に挫折し、勤勉の限界を知る時、余暇の有効活用の重要性に目覚める。
熱帯圏では、機械も人間も消耗が激しく、燃料以上に潤滑油の補給が重要になることを。
完全に壊れてしまっては修理できない熱帯圏の過酷さは、移り住まないことには理解できまい。
海洋国家アメリカ合衆国は、スペイン帝国との闘いから、休養の重要性を知り尽くしていた。
フィリピン群島をスペイン帝国から勝ち獲り、最大の島ルソン島西部スービックに海軍拠点を増強すると、すぐさま北部山岳地ベンゲット州バギオに将兵の避暑地を建設してしまう。
首都マニラから北へ250キロ、標高1500メートルの冷涼な天空都市バギオは、やがて夏の首都となる。
夏の都は松の都でもある。切り立つ断崖、全長41キロ、幅6メートルの山岳道路の建設に、1903年より日本人労働者の雇用が始まった。断崖絶壁の難工事区間に、アメリカ海軍カノン少佐は、日本人工夫を受け入れることを主張したのである。
日本人排斥運動の盛んな時期に、あえて日本人の信頼性を信じて疑わないのは合理性を尊ぶ海軍精神の賜物だ。最難関区間を、わずか2年で開通したことは、日本人の忍耐力と誠実な仕事ぶりを物語っている。
トラックもブルドーザーも無く、人力で建設した道路は、見通し良く、自動車の運行も快適と評される。
日本とゆかりが深いフィリピン農業
近年、高知県須崎くろしお農業振興協同組合はベンゲット州との経済文化交流により、日本最大のミョウガの産地形成に成功している。ミョウガとは、ショウガ科の薬味で、その香りは集中力を高める。
須崎で3年間働いたフィリピン人青年は帰郷し、ハウス園芸農家として独立してゆく。
くろしお農協にてミョウガ栽培の培地にココナッツの実のセンイを活用するのは、フィリピン国派遣の青年海外協力隊活動55年の草の根交流の精華である。
協力隊員の任期は、2年間であるが技術移転から始まる交流は、国際結婚を経て、緩やかな移住へとつながることもある。
ベンゲット道路の労働者も完成の後、日本に帰国する者、現地に溶け込む者、新しい仕事を求め南の島々に移り住む者。気の向くままに、いろいろである。
特筆すべきは、南部最大の島ミンダナオ島でマニラ麻の生産などに集結する日本人農業移民は、後に2万人を数え、現在の巨大バナナ産業を支える「土作り」に貢献していることである。
日本移民慰霊碑を家族で守るドゥテルテ大統領
ミンダナオ島出身のドゥテルテ大統領は、麻薬ギャングとの闘争で有名であるが、日本人移民の慰霊碑を、ご家族で守り続ける心やさしき人物であることは、ほとんど知られていない。
世界大戦の日米の太平洋での激突は、フィリピン群島に至り熾烈を極めた。フィリピン人住民の戦死者数は、111万人。日本人戦死者は、51万8千人と、海外の戦死者数で最大となった。ベンゲット道路周辺の日米両軍の激突は、世界史上空前の山岳地戦闘に数えられている。
ベンゲット道路の起点の近くの緑豊かな穀倉地帯にサンバレス州畜産試験場は運営されていた。
トメアスーに移植されたマドレ・デ・カカオ
日本政府から贈られた中古の消防自動車が牧草地の散水に活用されている、のどかな農村景観が印象的だった。そこではマメ科樹木マドレ・デ・カカオは蜜源植物(編注=ミツバチが蜂蜜を作るために花から蜜を集める植物)として注目されていた。
養蜂産業は畜産分野の研究対象なのである。柔らかな葉は、家畜の飼料として重用される。
現地ではカカワテと呼ばれるマドレ・デ・カカオの種子は、1986年、この畜産試験場から南米・トメアスー移住地に発送された。マメ科樹木をコショウ栽培の支柱として活用することをトメアスー産業組合の小早川利次技師は強く主張されていた。若き日の台湾高等農林時代からの熱帯農業への意気と情熱は、トメアスー森林農法の礎となったのだ。
首都マニラ近郊のバタンガス地方で開発されたコショウの生木栽培方法は、マドレ・デ・カカオの活用で知られており、縁あって、私はバタンガスの篤農家を訪問する機会に恵まれた。
中南米原産の樹木がルソン島に多く繁茂するのは、メキシコから渡ってきたスペイン人征服者の足跡を語るもの。マドレ・デ・カカオは、中南米原産で、カカオ樹に日陰を与える樹木である。
アマゾニアのトメアスー移住地でも、1986年の渡来当初は、カカオ畑に植えられ見事な実績をおさめてから、慎重にコショウ園に導入され、現在は小農支援に広く普及している。
カカワテは、冷涼な高地で開花結実するが、熱帯低地では、結実せず、挿し木で繁殖する。
つまり、際限無く、はびこる心配は無い。ひたすら桃色の花を咲かせる。
アマゾンとフィリピン
トメアスー移住地では、樹の最上端の若い枝と葉が、コショウに心地よい日陰を提供している。
樹冠(木のてっぺん)から発生する若い枝葉は、光合成が盛んに行われ、人間に例えれば青年期の働き盛り。企業に例えれば、バリバリ稼ぐ若手社員の集団といえよう。
現在はコショウの生産を優先する樹形が完成しているが、将来コショウ畑が壮年期を越えれば、住宅建材の生産も実現することだろう。
サンバレス州の穀倉地帯は1991年ピナツボ火山の大噴火により消滅し、沙漠に激変した。
火口から舞い上がる粉塵は、陽光を遮り、日本では冷夏による米の大凶作を招き、タイ王国産の米の緊急輸入という災難の年を迎えた。
ピナツボ火山周辺の被災者は、約120万人。おりしもマルコス政権末期は、「アメリカ軍は出て行け」と過激な民族運動が燃え上がる。
すっかりフィルピン人の人相になっていた私は、スービック基地周辺の暴動の様子を群衆に混じり見物していた。テレビや映画では決して味わえないド迫力であった。 当時のフィリピン人は、日常の言葉が乱れ、英語力も著しく低下していたことが忘れられない。
火山灰に埋もれたスービック海軍基地とクラーク空軍基地は、復興はあきらめ、この東洋最大の軍事要塞は放棄される。そして、フィリピン領南沙諸島は、国際紛争最前線となってしまった。
桃色の花・マドレ・デ・カカオは、明るく楽しい音楽があふれ、新しき土の文化・森林農法の確立に勤しむ日系人の棲むアマゾニアに「移住」したものと私は解釈している。(つづく)