少食知多の時代へ
ラテン社会では、東洋の仏教思想である『小欲知足』は通じない。
強欲な支配者との対立が深まる社会で、個人の欲を制限することは弾圧と受け取られやすい。
万人が理解できるご利益(りやく)のある表現として、小欲を少食と表現してみたい。
農作物や家畜や人には、栄養の吸収性を高め、無駄なく有効に吸収させる手法は、すでにある。
それは発酵。日本酒の醸造技術は世界最高峰の繊細な職人技に違いないが、南洋のヤシ酒には、気まぐれな微生物が主役の、混沌とした陶酔の世界が、果てしなく広がって行く。ミンダナオ島
には、ヤシ酒にチョコレートや卵を混ぜてしまう荒技がある。
私の赴任したパナイ島は北部ルソン島キリスト教文化と南部ミンダナオ島のイスラム文化の中間
にあり、稲作の達人がいれば、バナナ栽培の名人もいる。それゆえ果てしなく拡がるサトウキビ廃園にも可能性はある。大地主に見捨てられた荒廃地には、冒険的な農業の荒技も許されよう。
ルソン島ロス・バニョスの、国際稲研究所(IRRI)からは、肥料に依存せず、やせ地に耐える剛健な品種の種佅が定期的に送られてきたものだ。
パナイ島では、米は三毛作(年3回の収穫)収穫祭も年3回。庶民のヤシ酒、海の男のラム酒や生暖かいビールの回し飲みに、皆、よく歌い、よく踊る。すぐに酔いがまわれば、それで良し。
乾杯は、「マブハイ」。それは、厳しい状況を乗り越え、「生き抜く」気合いの声である。
開拓者の国ブラジルの「サウージ」「ヴィーヴァ」と同じく、家族への愛情を宿す音頭である。
無医村に暮らせば、病気や事故の恐怖に支配され、死の存在を直視する生活が営まれる。
辺境に産まれた「心霊手術」は、彼らの祈りの世界のほんの一部に過ぎない。
熱帯果樹においても、私たちは美味しさばかりを追い求め、その生誕の神秘には無関心を貫いている。熱帯果実は本来、野鳥との細やかな対話と人々の祈りの結晶である。
ただ食べて美味しいと満足するのではなく、作物の感応性を知ることを「知多」と表現したい。
栄養素の丸暗記ではなく、感動を持って、作物と対話する礼法を学びたい。
1987年、ミンダナオ島で収穫されたマラン (marang ニオイパンノキ)というクワ科の果樹が、バイア州イツベラ移住地に根を下ろしている。コチア産組の久我健二技師の呼び寄せによるものである。未だ大都市の市場に出荷されることは無い。
豊潤な香りを放つも、果肉はわずか。遠距離輸送は困難。確かに値段を設定するのは難しい。
安定生産を求める農業の常識は、野性味の強い植物の可能性を消失させることが実に多い。
一方、生産者が巨大都市の要望に振り回される時代は、すでに終わっている。あれも喰いたい、これも喰いたいという欲求は、肥満、糖尿病そして万病の起爆剤になってしまった。
心地よい活力を秘めた健脳(けんのう)食品を、大都会は渇望している。
マランのような野性味の強い熱帯果樹は、本来は水平線の遥か向こうの島々に、小舟で漕ぎ出す海の男の救命糧食であったと私は推測する。移り住んだ島々の土着菌と共生し、生命力は増強されたことであろう。肥料も農薬も、要らぬお世話に違いない。
極限状態に自らを追い込むオリンピック選手が、休憩時間のご褒美に、種子2~3粒を口に含む程度が丁度良い。種子の周りのわずかな果肉を、小鳥のように上品に味わうのだ。
自家用の余りは、急速凍結し、地元のスポーツクラブやリゾートホテル(ホテル・ファゼンダ)に納品していれば、万一の病害の拡散を防ぎ、生きた種子の盗難も防げるであろう。
マラン果実の中の大きな種子は、薬膳料理として楽しめる。炭火に土鍋でコトコト、コトコト、
土鍋で長時間煮込むのは、南洋の伝統的な調理法である。進化著しい台湾料理の素食(そしょく)を探求してみたい。アマゾニアの炭火(すみび)料理マニソバを満喫するのも面白い。
その穏やかな味わいは、非常時に、うろたえず、沈着冷静さを保たせる「健脳食品」である。
効率的な加熱ならばガスや電気の方が優勢であるが、素材の味を引き出すのは、炭火である。
その木炭も焼き鳥に使う高火力の備長炭は、何とか存続しているが、煮込み料理専用の木炭は、忘れ去られてしまった。
熱帯果樹類の恩恵については、果実よりも、樹木そのものの生命力に注目すべきかも知れない。
樹木の生みだす涼しい木陰、有り余る落葉と微生物が、力を合わせて創り出すもの。それは地力。
柔らかな日差しの林苑には野鳥が羽を休め、気むずかしく繊細な薬用植物も繁茂する。デング熱マラリアなどの特効薬となるショウガの仲間も気ままに、よく育つ。
薬用植物の認証制度は厳格を極めるが、規格に縛られて大量に売りさばく必要は全く無い。
天空に挑む心田開発の意気で、農家は、生命力を高める作物と調理法を、まず家族で、親類で、近隣住民、地元スポーツクラブへと、知識を広め行く奥地の細道(ほそみち)は、果てしなく、明るい。
「芽出し米」や「発芽玄米」のように、規格外、問題外とされてきたモノの中に、病に苦しむ人々を救い、未来の扉を開く荒技(あらわざ)は秘められている。
インドネシア国やフィリピン国は、人口の過密と交通渋滞にあえぎ、首都移転を構想している。
完全な都市行政破綻の前に、水源林再生に、汗と知恵をしぼる機会は沢山(たくさん)ある。
急激な工業化、新首都建設に苦悶したブラジル国は、都市の中に農村の「かほり」を留めることに成功している。外来種のマメ科の樹木やタケ類植物、マツ、ユーカリが原産地を遠く離れて、日系農民の意気と呼応し、大地に根を張りめぐらしている。知らず知らずのうちに、雨水の濾過と貯水の機能を果たしている。文字で伝達できない情報は、地下水脈となり、知識の泉となる。
むすび
南洋の島々では、極めて繊細な土壌の上に、細心の注意をもって、心豊かな農法を営んでいた。 今は家畜が農家にとって「家宝」であることが忘れ去られ、食べて美味しい動物性たんぱく質と意識改革されてしまった。荒れ狂うタンパク質の反乱は、とどまることを知らない。
熱帯果樹も野性味が忘れ去られ、土壌に残留する肥料成分は、万病の元になりつつある。
大航海時代のマモンの陽徳を、今こそ思い起こそう。病魔に打ち克つ野生の徳を取り戻そう。
南米にたどり着いた日本農民は、放棄された農牧地を微生物農法により、よみがえらせてきた。
その実績は、陰徳である。陰と陽が混ざり合い、森林農法として今、開花しつつある。
都市の再生には、農の「かほり」を。人間性の回復には、森の「かほり」を、醸し出すこと。
21世紀の心田開発は、木を植えることに肇(はじ)まる。
積もる木の葉に感謝を捧げる土づくりこそ、国づくり。伸びゆく梢(こずえ)に栄えあれ。
南洋から南米をめぐる冒険者の航跡と日本人開拓者の足跡、あつき御恵みに感謝いたします。
マブハイ、そして、サウージ!
(終わり)