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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(5)

ピニェイロスのじゃがいも倉庫の前での組合員たち(1935年頃)

 ビーラ・コチアのバタテイロを産組設立に駆り立てた直接的キッカケは、仲買人の不正であった。
 バタテイロは収穫したじゃがいもを、サンパウロ市内ピニェイロス区の青空市場まで運び、非日系の仲買人に相対取引で売っていた。だが、彼らは狡猾だった。買う時、石油缶を升にして量を計りながら、手かげんでごまかし利を盗んでいたのである。
 そのために組合をつくって団結、彼らと戦おうとした。それを最初に企てたのは1918年1月だった。日本人会の総会で、有志が提案した。
 市場の傍に倉庫を建てるという計画も込みであった。売れ残ったじゃがいもを持ち帰ることは難しく、仲買人に買い叩かれ、(夜、売り場に積んだままにしておくと)雨の害に遭ったり盗まれたりしていたためである。
 だが、倉庫を建てるには資金が要る。それを分担できぬ者もいて、否決された。同年4月、再度、提案されたが、やはり実現しなかった。
 しかし1919年以降、日本人会による肥料の共同購入、多忙時に雇う労務者の賃金協定、運搬用牛車の割当制、植付け時期の制限など事実上の組合活動を始めていた。
 同年、産組創立と倉庫建設が決定された。その倉庫用の土地を買うことになっていた当日、なんと降霜に見舞われ、畑のじゃがいもは真っ黒に焼け、決定そのものが立ち消えになってしまった。

遂に組合創立

 1923年、ようやくバタテイロは団結して仲買人に迫り、ごまかし封じに成功した。
 そのリーダーを務めたのは、村上誠基(せいき)という人物である。村上はやはり高知県人で、下元家と同じ高岡郡の出であった。黒岩という村に1892年に生まれた。下元亮太郎とほぼ同じ歳、健吉より5歳年長だった。
 独学で検定試験を受け、小学校の教員をしていた。経済的には、やはり恵まれぬ境遇にあって、上級学校には進学できなかったのであろう。1920年に渡伯した。下元家より6年後である。
 最初、別の地に入ったが、1年後にビーラ・コチアに移ってきた。その時、亮太郎を頼っている。日本で縁があったのだ。
 この村上が、それから2年後に、仲買人との交渉のリーダーを務め、勝ったのである。相当の器量の持ち主だったことになる。交渉には下元健吉も加わっていた。戦闘的に仲買人とやりあったという。
 ただ仲買人のごまかし封じに成功したといっても、やはり組合は必要だった。市場の傍に、保管用倉庫を建てねばならなかったからだ。
 1924年、4度目の組合創立が図られた。この時は組合そのものは登記されたが、稼働しなかった。一部の独走だったため、他の反発を買ったという。
 1927年、在サンパウロ日本国総領事館が、邦人農業者の産組設立を支援する予算を確保した。東京の本省に、そういう意見具申をしていたのである。
 それを知った日伯新聞の三浦鑿(さく)がビーラ・コチアを取材、組合設立を慫慂(しょうよう、薦める)する記事を書いた。地元がこれに応じ、同年末、登記した。創立組合員は83人で、他地域からの参加もあった。
 ところが、この国には産業組合法が未だなかった。そのために株式会社法を利用して変則的な形で登記した。その時の呼称は別名であったが、これがコチア産業組合である。
 業務開始は翌1928年であった。組合本部は当初ビーラ・コチアに置かれたが、後にピニェイロスの市場の傍に移し、そこに保管用倉庫も建てた。(つづく)