いごっそう
ビーラ・コチアに次いで各地に、総領事館の支援によって、邦人産組が次々と生まれた。だが、これらは総て館の奨めと指導によって、そうした。コチアは1918年以降、自ら企て、何度も失敗しながら、10年近くかけて実現した。この先行ぶりと粘りは尋常ではない。
しかも発足後、事業量をドンドン伸ばした。非日系を含めて――この国の産組中――ダントツ、桁違いだった。ともかく突出していた。
そこまで、コチアを突出させたモノは何であったろうか。
ここで、筆者の頭の片隅に「いごっそう」という言葉が浮かんだ。
「いごっそう」とは異骨相とも書くが、辞書類には「高知の方言で頑固で気骨ある様子」「負けず嫌いで頑固、こうと決めたら貫き通し、権威に屈しない土佐男の特性」とある。
先に触れた様に、ビーラ・コチアの邦人は、初期に於いては殆どが高知県人だった。その後、他県人も多くなったが、組合の設立・運営は高知県人が主導していた。
彼らのいごっそう魂が、突出させたのではなかろうか――。
この点について、今から四半世紀以上も前に、面白い説を手記に纏めた人が居る。
小澤孝雄といって、すでに故人になっているが、日本の農林省に長く勤務、定年退職後の1990年代初期、何度か来伯した。乞われて、難局に在ったコチア産組の再建を策すためであった。その折、右の手記を執筆している。
小澤は、前記の“突出”を、土佐時代からの高知の思想的風土と結び付けており、その思想的風土を作った歴史上の事件として「天保庄屋同盟」「明治維新」「自由民権運動」を挙げている。
天保庄屋同盟とは、天保8年、土佐七郡のうち高岡など四郡の庄屋が集い結んだ密約である。その中には「庄屋は帝(みかど)から任命された職である」「将軍、藩主といえども、本来、帝が親政されるべき職務を代行しているに過ぎない」という意味の記述がある。
天保8年といえば、明治維新の30年前で、幕藩体制が未だ堅固だった時期である。こんな密約が漏れれば、極刑は免れなかったであろう。そういう時期に一君万民の平等思想を確認し合い、しかも「(将軍、藩主に対し、庄屋は)いささかもたじろぎ申さず」と戦闘的な一言で結んでいる。
二番目の明治維新では、土佐から志士が輩出したが、その代表的存在だった坂本龍馬は、幕藩体制の欠陥を鋭く抉り、討幕と立憲による共和制国家の誕生を志して奔走した。
三番目の自由民権運動は、高知が発祥の地であった。「自由は土佐の山間より出ずと自負したほどである。中心人物は板垣退助であった。
彼らが運動推進のための結社・立志社を明治10年に起こした時、板垣の片腕であった植木枝盛が、機関紙創刊号にこの「自由は…」の一行を刻み込んでいる。植木は、国会開設運動や民権思想の普及に尽くし、衆議院議員となり、私的に憲法の草案を作った。
草案の中に「政府官吏の圧政、国民はこれを排斥する権利を有す」「(国民には)革命権あり」などの文言を盛り込んだ。
以上の歴史的事件に共通するのは、既存の支配者、支配体制に対する凄まじい反骨精神、新秩序・新社会建設への強烈な追求心である。
その思想的風土の根っこの処には、いごっそう魂があったであろう。
コチア産組の高知県人は、日本で、こういう思想的風土の中で生まれ育ち、その伝統を受け継いでいた――と小澤は観る。
そうかもしれない。移住時の「金の成る木」の虚言、ファゼンダでの搾取、奴隷に近い扱いに対する反骨精神が自営農への転身、産業組合の結成と拡大に駆り立てていた。
そのエネルギーは、そういう郷里の思想的風土から発していた――と読むとスッキリする。
因みに、天保庄屋同盟を結んだ一郡高岡に下元健吉の郷里半山村があった。そこを一本の山道が通っており「維新の道」と呼称され、今は名所になっている。
坂本龍馬ら維新の志士たちが脱藩した時に、皆、ここを通ったという。健吉の場合、当然、その故事を知っていたであろう。
付記しておけば、坂本龍馬は蝦夷(北海道)への移住事業も企てていた。これは、後に彼の二人の甥や同志によって引き継がれ、北米まで対象を広げた。ブラジルは、その延長といえなくもない。(つづく)