乱調
下元健吉の生涯は、成功と失敗の繰り返しであった。それが起伏が大きく激しい波の様に続いた。
戦中は、打つ手打つ手が当たり、危機を事業面での飛躍という奇跡的現象に転換させた。
これは1934年の仲買人との抗争の折とよく似ていて、規模は数桁、大きくなっていた。
しかし、終戦後は対外関係で調子を乱れさせた。以下、しばらく、その過程を概観する。
1945年8月15日、祖国の敗戦報を耳にした時、下元は号泣したという。
が、その一週間後には、サンパウロ産業組合中央会の幹部職員二人を呼んで、こう指示している。
「ともかく戦争は終わった。早晩、組合の仕事(経営)は自分たちの手に戻ってくるだろう。再出発の組合運動はどうあるべきか。戦前の様な行きあたりばったりの組合ではなく、地方別に強力な組合をつくることが必要だと思う。そのためには俺の処も、発展的解消ということが必要かもしれない。君たちは、その点検討しておいて貰いたい」
この下元の言は極めて大胆である。
「コチアを含めて中央会傘下の産組を総て解散させ、地方別に新組合を組織し直し、その業務を中央会で統括することを意味するからだ。日系産組の総合的な再編成、一本化である。
無論、新しい中央会の采配は下元が振ることになるだろう。彼は、戦前は中央会の専務理事であったし、コチアの規模は他の組合は比較にならぬほど大きかったからだ。
何故、下元は突如、こんなことを言い出したのだろうか? 以下は筆者の読みである
――下元は新社会建設のため、それをしようとしていたのだ。祖国の敗戦というショックの中で、心機一転、積年の大望に向けて再スタートしようとしたのである。
先に触れた様に、1941年、全伯産青連が発足した時、彼はコチアの経営は人に任せて、自分は中央会の専務職に専従しようと考えたことがある。産青連運動、新社会建設のためである。
祖国の開戦により、この構想は、そのままになってしまったが、忘れていたわけではなかったのだ。内容を少し変えて、実行に移そうとしたのである。
産青連5千の盟友を建設部隊とし、それを進める腹であったろう。
一週間前には号泣した男が、こういう具合に新戦略を打ち出している。如何にも下元らしい。
しかし、この時点で邦人社会は、歴史的な騒乱期に入りつつあった。この騒乱については、周知のことであるので詳しい説明は省くが、祖国の勝敗問題に端を発した邦人同士の意見の対立が、次第に複雑化、変質、険悪化して殺気を帯び、遂には血を見ることになった。邦人社会は至る処で分裂、騒乱状態となった。
下元は、事態がそこまで行くとは、想定して居なかったのであろう。ところが、想定外の事態に突入してしまった。そのために状況判断を誤った。結果として、今度は打つ手打つ手、外れることになる。
それが彼の新社会建設計画を蹉跌させる。(つづく)