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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(20)

「臣道聯盟のテロリストを予防拘禁」と報じる1946年5月14日付ノイテ紙

 右の騒乱は、実は、その前哨戦の様なものが、戦時中に始まっていた。1943年から地方の邦人農家が襲撃されるという事件が頻発していたのである。
 各地で養蚕舎が焼き討ちされたり、薄荷畑やその油の抽出機具が置いてある作業場が荒らされ、破壊された。
 襲撃犯として、利敵産業自粛運動というものをしていた興道社という団体に嫌疑がかかり、その社長で日本陸軍の退役中佐、吉川順治が州のDOPS(政治社会保安警察)に逮捕され拘留されていた。ために世間では、興道社はテロ組織、吉川はその首魁と思い込む向きが多かった。
 利敵産業…云々というのは、絹糸や薄荷油が、日本が戦っている米国に輸出され軍需物資になっているから、養蚕や薄荷栽培は止めるべきだという運動である。ただし襲撃は興道社がやったことではなく、吉川は誤認逮捕であった。が、その時点では、興道社の犯罪とされていた。
 同時期、コチアは薄荷生産者のために、抽出油の精製工場を建設中であった。薄荷を生産する組合員の要望によるものであったが、他の薄荷生産者を組合に加入させる意図もあったろう。
 その生産者が襲撃されたのである。無論、下元は激怒した。その感情が後々まで尾を引いた形跡がある。彼もまた襲撃犯は興道社であると思い込んでいた。
 1945年8月15日、戦争が終わった。
 戦時中、日本でもブラジルの邦人社会でも、その日まで100%近くの人が、祖国の最終勝利を信じていた。
 ただ日本では、終戦と同時に情報が十分流れたため、ごく短期間で総ての国民が、呆然たる中にも敗戦を受け入れた。
 が、ブラジルでは情報が不足した。しかも偽の戦勝報が日本語のラジオ放送やパンフレットで流された。ポルトガル語のラジオや新聞は日本の敗戦を報じていたが、誰も信じなかった。絶対にあり得ないことだったからである。そして、祖国の最終勝利を信じたままでいた。
 しかし敗戦を認める側へ転じる人が少しづつ現れ、その比率は増えて行った。
 なお、この「勝利を信じたままの人」「敗戦を認めるようになった人」には、後に幾つかの呼称が生まれるが、ここでは取り敢えず戦勝派、敗戦派という言葉を使用する(勝ち組・負け組は、後年、日本から来た人間がつけた呼称である)。

不用意な発言

 同時期、奇怪な変事が種々、発生した。その一つに「日本海軍の艦隊が近くやってくる。同胞を祖国に迎えるため、政府が派遣した使節が乗っている」という流言飛語があった。かなり広範囲に広まったようで、これを信じた邦人が、地方から続々とサンパウロにやってきた。
 ここを足場に情報を得、サントス港へ下り艦隊を迎えるためであった。彼らは街路を異様な空気を発散させながら行き来した。これが一般市民の不審と警戒を買い、警察が日本人自身による解決を要求する――という事態になった。
 その中で戦勝派の臣道聯盟が、艦隊の歓迎準備を進めていた。興道社が終戦直前、改称した団体である。
 憂慮した敗戦派の有志たちが、対策を練るべく1945年9月、市内の常盤ホテルで集会を開いた。戦勝派にも参加を呼びかけた。集会には百余名が参加、戦前に邦人社会の指導者であった数人が私見を述べた。彼らは敗戦派であった。
 下元健吉も一席ぶった。ところが、戦勝派への〃弾圧的言辞〃を吐き「俺の首をかける」「腹を切る」などの異常、感情的な語句を口にした。これで戦勝派の反感を惹起してしまった。
 この話は香山六郎著の『移民四十年史』に出てくるが、〃弾圧的言辞〃の内容は記していない。遥かな後年、筆者が耳にした処によると、下元は「(戦勝派の強硬分子を)抑えるため、警察を動かす。数は多くなるが、食糧はコチアが持つ。そうすれば警察は動く」と言ったという。
 ところが、会場に戦勝派が少なからず居って、それが外部に筒抜けになり、広く伝わってしまった。下元は戦勝派が居ることを知らず、敗戦派だけの集まりと勘違いしていたのかもしれない。不用意な発言であった。
 これが先に記した新社会建設計画蹉跌の第一歩になる。(つづく)