検事は、半田氏がこの地で財を成し、立派な家庭を築き上げたことなどまったく考慮しなかった。
しかし、第1裁判局のルイス・カルロッス・ダ・コスタ・メンデス判事はこの判事の意向には従わなかった。
「被告人と証人の数が多く、問題の早期解決はできない。従って、期限付きの訪日は許可されるべきだ。申請者にはブラジル国籍の子弟があり、当時居住していたところに不動産ももっている。却下の理由はなく申請を許可する。SP、19─7─57」
翌日、判事は外国人警察に半田氏が希望していた6ヵ月間の訪日許可の書類を提出した。
半田倉蔵が訪日したかどうかは分らない。判事の訪日許可については半田氏の個人的問題なので訴訟書には何も書かれていない。臣道聯盟の訴訟書類によれば、許可された60日間の訪日のあとサンパウロにいたと書かれている。
その証拠に半田氏は1958年4月23日、訪日問題を解決した同じネーヴェス弁護士を通して、第1裁判局の判事にある案を提出した。その案が12年もつづいていた訴訟問題を解決するきっかけとなった。弁護士は訴訟書のはじめに、半田氏の例について書いた。
半田氏は他の被告人同様、1938年5月18日の条例1の大統領命令431号に基づいた条例3、16号によって起訴された。だが、第1裁判局に回されたのは1950年4月11日だ。今からちょうど8年と12日前だ。新しい法令により、訴訟は多少進むようにおもわれた。そして、訴訟はその日からはじめられた。現在の刑法典によると、出頭する日は4月12日からとなる。手落ちがあったとは思われないが、訴訟の出頭命令が手元に着いたのは1953年1月22日だった。
「以上の理由でこの審問において、検察局の責任者である貴殿の無罪宣言と臣道聯盟問題 12.647の訴訟取り下げを願うものである」
ところが、訴訟問題はそこで止まってしまった。半田倉蔵被告の弁護にあたっているエルクラーノ・ネーヴェス弁護士の申請書は1ヵ月もたった5月27日、アルセビーヤデス・ルイース・ビアンコ検事官のもとに回された。