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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(27)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

謎の奇策二件(下)

 次に、もう一件の新政策であるが――。
 コチア青年の導入が始まった1955年、下元はジャグァレー区の肥料・飼料工場に隣接する6万平方メートルの土地を購入しようとした。
 それを聞いた人間が、自分の耳を疑ったほど不可解な買いモノであった。そんな広大な土地は必要なかったし、要する資金は莫大な額だったからである。
 しかも下元は、購入資金として、土地代の支払い終わるまで、例の増資積立金を2%から5%へ引き上げると言い出した(戦時中の2%から5%への引上げは、その後、元に戻していた)。
 これには、組合員から猛烈な反対の声が上がった。アンチ下元派が、その中心にいた。
 コチア産組には戦前から下元のやりかた(積極拡大策、独裁など)を好まぬ組合員の層が存在した。戦後に於いても多数残っていて、アンチ下元派と呼ばれた。
 この土地購入では、例によって会議の席上、下元が「辞める!」と席を蹴って上着をかついで出て行くという一幕があった。その後を役員や有力組合員が自宅まで追って慰留した。解決は長引いたが、結局、下元の粘り勝ちとなった。
 ところで下元は何故、そんな必要もないバカでかい土地を買おうとしたのか。これも謎のままとなった。
 下元は一応、長期的に見ての新施設用と説明していたという。もしそうなら、その新施設が何かを明示しなければならない。が、それはしなかった。ハッキリしていたのは、バタタの入荷量増加の見通しだけだった。
 しかし、いくら増えても、その保管倉庫のために6万平方メートルもの土地が必要である筈はない。2年後に近づいた創立30周年の記念行事の会場に予定していた…ともいうが、記念行事は一時的なものであり、説得力を欠く。広い土地が必要なら借りればよく、また、そうすべきである。
 この騒動では、少なからぬ数の組合員が脱退している。これは普通なら組合経営上、打撃である。下元は、それは予め充分知っていた筈だ。では何故、こんなことをしたのか? 
 筆者は、下元は、こういう策によって、わざとアンチ下元派を怒らせ、不良組合員ともども、自ら脱退させようとした――と筋書きを読んでいる(不良組合員=抜け売り常習者などのこと)。
 つまりアンチ下元派や不良組合員が増えており、経営の邪魔になってきたので、自分から出て行く様に、わざと、こういう奇計を仕掛けた――。
 脱退者が大量に出、彼らの出荷量が減っても構わなかった。コチア青年を雇用する組合員が作物の植付け面積を広げたり、鶏の飼育羽数を増やしていたからである。脱退によって減少する出荷分は、補充できる見込みだった。
 この頃、組合員は5千人を超していたが、コチア青年は何千人という単位であった。組合員の相当数が脱退しても心配なかった。あるいは、それも青年導入の目的の一つであったのかもしれない。
 組織が、ここまで大きくなれば、時にこれ位の荒技は已むを得なかったであろう。
 無論、下元は、そんなことは口にしていない。したら、組合を揺るがす大騒動になっていたろう。それを避けるためにも、青年導入、土地購入いずれも、鮮明な理由付けしかできなかったのではあるまいか。
 因みに、脱退した組合員の多くは、スール・ブラジル農協へ入ろうとした。ところが、その専務理事・中澤源一郎は、この時、新規加入の受付けを中止している。下元の狙いに気づいたのだ。
 問題を起こしそうな組合員を大量に受け入れるわけには行かなかったのである。後に条件を整えて再開したが――。(つづく)