しかし、マサユキは433票獲得したが、町中の者が知っているクロビス・シディネイ・トーン弁護士とアンジェロ・フェラリ薬剤師に次いで3位なのだ。新しい市議会で党が3席得られるのだろうか? もし、そうなったら、マサユキは当選できる。
正輝は党の選出者の多さによって議員席をきめるのにこれほど時間がかかるとは思わなかった。回りではUDNはもう1席もらえるとか、いや、他の政党に回されると騒いでいる。数が決定するあいだ、すでに選出された者は別だが、決まっていない候補者は、電話と投票数を計算しているテーブルの間を行ったりきたりしていた。
いつもは落ち着いてしっかりしている正輝だが、ビールのコップを手から滑らせてしまったほどだ。苦痛の時だった。日本の敗戦を認めざるを得なかった時の苦痛と同じだった。また、もう一度あのような苦痛を味わうのか? いや、今回は自分が苦しむだけではない。息子にも同じような苦しみを味あわせるのか? 体に震えを覚える。
それぞれの党の議員席が発表されだし、我に返った。UDNの選挙委員のルーベンス・ブローニが息子が選出されたことを伝えてくれた。しかし、選挙委員議長の各党の議席を発表するまで信じられなかった。「PDC(社会民主党)4席、PSP(社会党)4席、PTB(労働党)3席、UDN(国民民主同盟)3席…」そのあとは何も耳に入らなかった。アナウンサーに背を向けてすすり泣いた。
「がんばったかいがあった」
そのひと言だけが頭にうかんだ。
エピローグ
1966年5月1日、保久原正輝は結腸癌のため61歳で死去した。財産も借金も残さなかった。そのとき、房子はもって生まれた性格で、大いに嘆き悲しみ、夫の死後は生きていても意味がなく、死んだほうがましだといった。しかし、その後30年生きつづけた。
正輝が亡くなって4年後、房子はマサユキの計らいで訪日がかなった。日本の旅券をもっていたが、当時、故郷沖縄は米国の統制下にあり、アメリカ軍発行の旅券を取らねばならないことに憤慨した。