「コロナ禍により3月中旬から自宅待機の指示が出て、そのまま4月に定年退職という運びになり、ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。在職中にお世話になった日系社会各種団体や個人の皆様にこの場を借りて心から御礼と感謝を申し上げたいと思います」――サンパウロ日伯援護協会の足立操氏(島根県、70)は、2011年2月に事務局長補佐として援護協会に入り、翌年から事務局長に昇格した。この4月に誕生日を迎えて定年退職するまで8年間、医療と福祉、援協の業務全般を統括する立場で働いてきた。今までの思い出や気持ちを取材した。
「多くの方々にお世話になりました。援協は日系社会の皆様に支えられ成り立っているのだと強く実感いたしました。援協事務局長という立場上、広く日系社会の情報が入り財政難や後継者不足などの課題を目の当たりにしてまいりました。この災禍後にはこれらの問題がより厳しくのしかかり日系社会への抜本的な対策、再構築が求められるのではと懸念しております」とコロナ禍の影響を心配している。
足立氏は早稲田大学卒業後、伊藤忠商事で貿易や海外戦略企画立案を担当し、93年に駐在員として約5年滞伯した。2000年7月にブラジルへ移住し、フリーのコンサルタントやヤクルト・ド・ブラジルでの勤務経験を経て11年2月に援護協会事務局長補佐となった。
翌年すぐに事務局長に昇給した足立さんは、民間企業やコンサルタントで培った経験を活かし「日系社会の明日をより良いものにするため」のプロ意識を職員らに持たせようと、「悪い話はすぐに持ってきてください。私がなんとかしますから」とチャレンジしやすい組織の雰囲気作りに努めたという。
事務局長を務めた間に援協理事から叙勲者や外務大臣表彰者が10人以上輩出された。「援協の日系社会に対する貢献が認められた証として非常に嬉しく思っています」と声をはずませる。
日本の団体との信頼関係強化にも尽力した。なかには「信頼回復のために背広をびしょびしょにして約束の時間に間に合わせた」時もあったと振り返る。
援協は公益財団法人日本国際協力財団(大野功統名誉会長、秋山進理事長)の「神内医療福祉基金」として援助を受け援協傘下の老人ホームの運営費に一部を充てていた。同基金は毎年の使用報告が必要だったが5年間分の報告がなされておらず、基金を失いかけるほど信頼関係が悪化していたという。
足立氏は着任後、5年間分をさかのぼり報告書を制作して説明のため日本へ向かった。しかし財団訪問の直前、局地的豪雨にみまわれてしまう。時間をずらす事も出来たが「信頼関係回復のため」赴いているのだからと豪雨の中、足を運んで時間に間に合わせた。
「びしょびしょになり、お会いした理事の方々には驚かれました」が結果的には信頼回復とともに信頼関係強化に繋がり、「3施設維持管理基金」としてサントス厚生ホーム、あけぼのホーム、さくらホームの施設維持のための基金設立に至ったという。「基金は施設修繕が必要になったときのために今もとってある」と説明する。
その他、16年イペランジアホーム改築プロジェクトの支援を日本財団(笹川陽平会長)から受けるための交渉や、国際協力機構(JICA)との関係強化による受入人数の拡大、JICA日系人研修を利用した金沢大学付属病院への研修、被爆者医療研修及び被爆者医療申請代行事業などにも携わったという。
足立氏は援協を離れた後も「日系社会の存続と発展に何らかの形で協力できないか」と今後も日系社会に携わる活動をしていく予定だという。
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昨年より日伯友好病院や、サンタクルス病院などで導入された「被爆者医療申請代行事業」で在伯する被爆者も指定の医療機関で立て替えせずに無料で医療を受けられるようになった。以前は一度本人が立て替えて日本へ書類申請を行い、払い戻しを受ける形式をとっていた。だが在伯する被爆者の平均年齢が80歳と高齢化し申請が難しくなっていることから、病院側から代わりに医療申請できるよう3年前から準備していたという。このような移住者側負担を減らす努力の積み重ねが、大きな結果につながるようだ。