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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(3)=移民船が感染ルートに?

疫病を避けるためにガスマスクをしたペスト医者、パウル・フュルスト画、1656年(I. Columbina (draughtsman), Paul Fürst (copper engraver) / Public domain)

疫病を避けるためにガスマスクをしたペスト医者、パウル・フュルスト画、1656年(I. Columbina (draughtsman), Paul Fürst (copper engraver) / Public domain)

 1918年にブラジルにスペイン風邪を持ち込んだのは、英国を出航した客船デメララ(Demerara)の乗客だった。現在ではウイルス患者の主要な移動手段は飛行機になっているが、今も客船経由の感染は健在だ。
 新型コロナウイルスでは、集団感染が起きたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」が横浜港に2月最初に寄港して話題になった。3月1日までに、当初乗船していた約3700人は全員が下船。それまでにのべ706人が感染した。新型コロナで横浜に寄港したクルーズ船で感染した人の中で死亡したのは一人。乗船者中の致死率はわずか0・02%だ。
 移民史を振り返ると、同じ事は当然、移民船にも起きていた。
 たとえば、1918(大正7)年4月25日、1800余人の移民を乗せて神戸港を出航した若狭丸は、ブラジルへの渡航途中、脊髄脳膜炎患者が続発した。《門司とシンガポールで消毒予防に尽くしたが、六十人の死亡者を出した》『移民四十年史』(香山六郎編著、1949年、385ページ)とある。
 髄膜炎は通常、微生物感染によって引き起こされ、ほとんどはウイルスによるものだ。移民が押し込まれる「たこ部屋」は、二段ベッドの密集所帯であり、感染を避けるのは難しかっただろう。
 シンガポールまでに2、3週間と思われるが、その間に60人が死亡するというのは、艦内で相当大流行したに違いない。若狭丸の場合、感染者数は分からないが短期間に「乗船者の3%が死亡」というのはあまりに多すぎる数字だ。
 翌1919年1月21日に神戸港を出航した博多丸でも航海中に脳脊髄膜炎患者が4人でた。さらに3月17日にサントス到着時には、小児に麻疹患者が多かったので、ブラジル海港検査官は厳密な検疫を実施した。
 その結果、船丸ごとイーリャ・グランデ検疫所に回航させ、患者とその家族100人余りを検疫所で8日間抑留した。それ以外は無事に上陸したが、患者が耕地に入ったのは2カ月後だった。
 人、モノ、カネの移動がグローバル化した現代社会において、移民や移住行為はあまりに日常的になった。そこに文化も付随して持ち込まれれば、当然、病気も一緒に運び込まれるのだろう。
    ☆
 『モダンメディア』56巻2号2010[人類と感染症との闘い](加藤茂孝著、https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/MM1002_03.pdf)によれば、ペストはヒマラヤ山麗が元々の病巣地で、ユーラシア大陸やアフリカに広がった。
 3回のペスト大流行が起きており、うち最も死者が多く、欧州人口の3人に1人が亡くなった第2回(14世紀)は、いったん中国で流行したものが、モンゴル軍の大移動によって欧州に持ち込まれたとされる。
 人の大移動と共にパンデミックが起きるのは、歴史が示すところだ。今回の新型コロナでは、グローバル化した世界経済では、14世紀のモンゴル軍以上の大移動を日常的にやっていることが背景にあると思われる。(つづく、深沢正雪記者)