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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(6)=各地で起きたマラリア惨禍

廃墟となったマデイラ・マモレ鉄道のなごり。ポルト・ヴェーリョ市で

廃墟となったマデイラ・マモレ鉄道のなごり。ポルト・ヴェーリョ市で

 元アマゾン移民の小野正さんの自分史『アマゾンの少年の追憶』は、一つ一つの場面が淡々と描かれているが、その内容は実に過酷な現実の連続だった。
 前節で紹介した通り、1933年7月16日の深夜に「突然うーんと言う重苦しい呻き声」をたてた弟の哲夫が亡くなったのに続き、翌34年4月2日には兄の利雄(21歳)、その年の瀬の12月2日には姉の幸(こう)が16歳で亡くなった。《いずれも高熱病の後遺症で完全な治療法が無かったのだそうです》とある。
 両親の嘆きようは尋常ではなく、サンパウロへ南下することを決意する。2千人の日本人がこのような環境に放り込まれ、その77%が早々に離脱したのは、ムリもない選択だった。
 アマゾン巡回医療にも従事した同仁会の細江医師は、《アマゾンは恐ろしい緑の地獄であったのだ。アマゾン中流になんとまあ、たくさんの欧州人が死んでその墓があることであろうか。黄熱病で、あるいは悪性マラリアで。死んでも、死んでも、あとから移民が行ったのである。(中略)十六、七世紀のアマゾン地帯の繁栄は、今も残っているマナウス市のテアトロの豪華さを見れば分かると思う。その自分に、あちらに住んでいた人々からみれば、恐怖の森としか思えなかったであろう。それは、叔父が従兄が死に、伯母が死んだからである。南欧人の間では孫子の代までアマゾンへは移住するなというような言い伝えができたほどであった》(『農村病』PDF版9ページ)
 その代表例がマデイラ・マモレ鉄道建設事業だ。ロライマ州ポルト・ヴェーリョからグアジャラ・ミリンまでの366キロの鉄道建設で、1912年に開通した。世界各国からの労働者がかき集められた。未開のアマゾンを切り開く難工事で、6年半の間に少なくとも6千人の労働者がマラリアなどの感染病で亡くなったと言われ、「悪魔の鉄道」「枕木一本につき死者一人」と呼ばれた。
    ☆
 移民史上のマラリア悲劇の最たるものの一つは、1915年8月の入植後、僅か半年余り80人以上がマラリアで次々と斃れていったサンパウロ州ノロエステ地方の平野植民地だ。
 《女の死人は大抵妊婦だった。高熱の為流産し、産褥熱を起して死ぬ者が多かった。最初は死人を入れる棺を作ることが出来なくて、行李に入れたり樽に入れたりして土葬したが、後には薪を集めて来て火葬にした。

平野植民地にある平野運平の墓

平野植民地にある平野運平の墓


 人が死んでも会葬者など一人もなく、死者を焼く場所迄担いで行く人さえなかった。十二月の末から三月頃まで僅々三カ月程の間に八十名の死者が出~》〈岸本昂一著『移民の地平線』(曠野社、1960年)166~178ページより転載〉
 だが、それはほんの一例に過ぎない。
 《マレッタ菌に冒されて最も悲惨な目に惨めな目にあった例として、よくノロエステ線の平野植民地が挙げられるが、こうした例は初期の開拓各地にあった。後に東京植民地と称したパウリスタ線のリンコルーン駅、モツカ駅の米作地、ノロ線のリンス奥のボア・ビスタ植民地、ソロカバナ線の第一モンソン植民地のリオ・バルド沿岸、サンタクルス・ド・リオ・パルド沿岸綿作地帯などなどマレッタ流行の惨状がある》(『40年史』388ページ)など多かれ少なかれ、同じようなマラリア禍に苦しんだ。(つづく、深沢正雪記者)