移民開始から10年目の1918年、ブラジル移民組合の要請により、北里研究所の寄生虫学の権威・宮嶋幹之助がブラジルに派遣された。日本人研究者初の現地調査といわれる。専門はツツガムシ、マラリア、日本住血吸虫、ワイル病など。移民の公衆衛生指導をし、レジストロを始めとする日本人集団地の調査記録を残している。
宮嶋は、北里研究所から持ってきた貴重な本一式をリオの国立図書館に寄付し、オズワルド・クルス研究所、ブタンタン研究所でも学術交流している。彼もアドルフォ・ルッツ博士(ブラジル熱帯医学の父)やカルロス・シャーガス博士(シャーガス病発見者)らと交流し、日伯学術交流の先駆けとなった。
同研究所の初代寄生虫部長・宮嶋は、1918年10月26日にサントス港に到着し、約7カ月も滞在して調査や指導を行った。
宮嶋が来伯したこの年は、奇しくもスペイン風邪のブラジル到来(同年9月)と同じ時期だった。そして彼自身も着伯数日後に、スペイン風邪に罹患した。
日本移民百周年を記念して細菌研究所のオズワルド・クルス財団の研究者が刊行した野口英世を軸にした日伯医学交流史『Cerejeiras e cafezais – relações médico-científicas entre Brasil e Japão e a saga de Hideyo Noguchi』(2009年、Bom texto、以下、『桜とコーヒー』と略)にも、その時のことが書かれている。
現地受入れ責任者の衛生サービス役員のアルツール・ネイヴァ氏に宛てた手紙で、宮嶋は《エスタード紙の記事で、貴公が最近流行の疫病で入院されていると知り、大変驚かされました。貴公の顕著なる功績に深い敬意を表するものです。私も重々、個人的にお見舞いに訪れたいのですが、私氏自身も流行病の回復期にあり、できそうにありません》(『桜とコーヒー』69ページ)とある。
手紙の日付は18年11月14日だから、着伯すぐに罹患し、2週間経ってようやく回復期に入ったところのようだ。
スペイン風邪が流行した1918年。なぜこの時期に、宮嶋はブラジルへ赴いたのか。
『地学雑誌』第32巻第375号(大正9年3月15日発行)に宮嶋が寄せた「南米の大西洋沿岸」という論説がある。そこに説明されているのは、北米の日本移民排斥の原因の一つにあげられているのが「日本人には十二指腸虫が多い。そんな虫食民族を合衆国に入れてはならない」という動きの高まりがあり、《北米において日本人が参ると糞便の検査をして、その中に虫卵があると或いは上陸を禁止しやかましく取り締まるのである。また甚だしい場合には日本へ送り返されるのであります》とある。(101ページ)
1913年に北米カリフォルニア州で排日法が成立し、米国内で日本移民締め出しの動きが強まっていたのが、宮嶋派遣の背景となっている。(つづく、深沢正雪記者)