革命はじまる
革命は男の夢を掻き立てるものです。革命という言葉を聞いただけで、昔の人は血湧き肉躍ったものでした。
ロシア革命に先立つこと7年、メキシコにも革命がありました。そんな革命の中で日本人移民がどう生きてきたか、が今回のテーマです。
まずは、メキシコ革命がどうして始まったのか、から説明します。
メキシコは1810年にスペインから独立しますが、一般の農民には自由がありませんでした。土地を持つこともできませんでした。相変わらず農奴みたいな暮らしが続いていました。そんな中、34年も大統領を続ける人がいました。特権階級は華やいだ社交界で我が世の春を謳歌していました。
しかし、長い間の権力は腐敗するのが普通です。いつまで大統領をやっているのか、という声があがってきました。80歳になった大統領はそんな流れを知って、さっさとフランスに亡命してしまいます。
あとが大変なことになりました。群雄割拠の時代到来です。日本の戦国時代みたいになりました。応仁の乱といってよいかも知れません。国土は荒れ、150万人が革命内乱で亡くなったといいます。当時のメキシコ人口は1500万人でしたから、その1割が犠牲になりました。この血なまぐさい革命は1910年から約7年間続きました。革命のスローガンは「土地と自由を」でしたが………
日本人移民9千人、メキシコへ
メキシコの日本人移民は、1906、1907年にたくさんやって来ました。この2年間だけで約9千人もの日本人がメキシコにやって来ました。1905年に日露戦争が終わったばかりでしたから、日本は海外移民熱が高まっていました。
もっとも、彼らの真の目的地はアメリカでした。一攫千金を狙ってアメリカに行こうとしたのですが、そのころ日米紳士条約が結ばれ、ビザが出なくなりました。まずメキシコに行き、それからアメリカに密航しようという人がどっとメキシコを目指しました。笠戸丸が1908年でしたから、そのちょっと前のことです。
彼らの行き先は炭鉱、鉄道建設、サトウキビ耕地などでした。どこも厳しい肉体労働で、契約は3年でした。ほとんどがアメリカ密航を目指していましたから、メキシコに着けばこっちのものです。契約半ばで就労地を逃げ出し、アメリカを目指しました。所持金はありませんから、徒歩です。
炭鉱はアメリカ国境近くでしたから、案外簡単でした。しかし、サトウキビ耕地からアメリカ国境までは3千キロもあります。ここには約1千人が働いていましたが、契約を全うしたのは2割もいなかったようです。
とにかく耕作地を逃げ出し、北へ、北へとアメリカを目指しました。やっとの思いで国境にたどり着くと、国境警備隊が厳しくて簡単に密航できません。仕方なく国境に留まって棉花畑で働く人もありました。
ちょうどそのころ、メキシコ革命が起きました。日露戦争に従軍した人も移民の中にいましたから、血が躍りました。スペイン語はあまり話せませんが、軍隊であれば言葉は必要ありません。軍隊はほんとうにいい「就職口」でした。
将軍の懐刀
野中金吾(1889年、福岡県生まれ)は、1906年、16歳のときサトウキビ耕地移民としてメキシコにやって来ました。彼は半年で耕作地を逃亡、アメリカをめざして北上しました。食べ物もなく、倒れそうになってふらふらしていたとき、親切なメキシコ人に拾われました。その家で下働きをしながら看護学校で勉強し、看護師になりました。
それからひょんなことで革命軍に入り、軍医になります。彼の上官はパンチョ・ビヤという将軍でした。荒くれ男で、戦いが非常にうまかった。「メキシコのロビンフッド」と言われたくらいです。野中はこのビヤ将軍といつも行動を共にしました。懐刀でした。
メキシコ革命で最も有名な写真があります。1914年の戦闘ですが、馬にまたがるビヤの脇で馬車を操っているのが野中です。野中25歳のときでした。
話はそれますが、ビヤはアメリカで何本か映画になっています。中でもヒット作が『戦うパンチョ・ビラ』(オリジナルタイトル「Villa Rides」)です。1969年の古い映画で、ユル・ブリンナー、チャールズ・ブロンソン、ロバート・ミッチャムなどが出演しています。この映画は、さわりだけYoutubeでみることができます。ユル・ブリンナーがパンチョビラに扮していますが、こんな荒くれ男と野中は一緒に戦ったのです。
ビヤは猜疑心の強い男でした。野中は信義心にあつかったようですから、彼は余程ビヤに信用されたのでしょう。
ビヤが主人公になった映画のついでに『革命児サパタ』(1952年、マーロン・ブランド、アンソニー・クイン共演)も紹介しましょう。
これはビヤと同じ時期、メキシコ南部で活躍したエミリアーノ・サパタが主人公です。ビヤのような派手な動きはありませんが、農民に一定した支持がありました。ただ戦闘資金があまりなかったのと、徹底した農民組織だったので、サパタ軍に日本人移民は「就職」しませんでした。旨味がなかったわけです。この映画もYoutubeでさわりをみることができます。
この映画のさわりだけでも観て、メキシコ革命がどんなだったか味わってみてください。
アメリカ人もやって来た
革命は男の心をくすぐるのか、アメリカからもいろいろな人がやって来ました。そのうちの1人がアンブローズ・ビアスという作家です。彼の短編は三島由紀夫が絶讃しています。
ビアスは71歳の老いぼれでしたが、革命に彼の心は躍りました。メキシコに入って来てから、彼はビヤ将軍のオブザーバーになりますが、そのうち行方不明になってしまいます。戦場で横死した、銃殺されたなどと言われています。
ビアスが主人公になった映画が『私が愛したグリンゴ』です。グレゴリー・ペックが主人公です。これもYoutubeでさわりだけ観ることができます。
後でロシア革命に行って『世界を揺るがした十日間』を書いたジョン・リードもやって来ました。彼はビヤの周辺をうろうろして帰米後『反乱するメキシコ』を書き上げています。
将軍の暗殺に失敗
條勉という人がいました。彼は1887(明治20)年宮城県生まれでしたから、野中金吾より2歳上です。この人もサトウキビ耕地移民でしたが、やはり半年で耕地を逃亡しています。彼もアメリカを目指しましたが、国境を越えるのが難しく、いっそのことこのままメキシコで頑張ろうと決心しました。頑張った甲斐あって、農園を経営するようになります。
1916年のある日、農園に怪我した革命軍の将校が助けを求めてやって来ました。右足を鉄砲で撃たれていました。それがビヤ将軍でした。條の手厚い看護で、ビヤはすっかり快くなりました。日本人が真面目で信義あついのをビヤは知っています。オレについてこい、となって條はビヤの軍隊に入ります。
実は、このビヤをなんとかやっつけたい、と躍起になっていたのがアメリカでした。ビヤは国境を越えてテキサス州の小さな町を襲撃したならず者でした。18人のアメリカ人を殺し、若い女性をさらって行ったふとどきなメキシコ人でした。
アメリカ政府は激怒し、どうしてもビヤを捕まえろ、と3千人の軍隊をメキシコに派遣しました。ところがビヤはなかなか捕まりません。なにしろ彼はロビンフッドです。メキシコの山地を熟知していました。そのうち第一世界大戦が始まって、アメリカはビヤ追討どころでなくなりました。
しかし、アメリカはやられたら必ずやり返す国です。ビヤの周辺を洗ってみると、彼のそばに日本人がいることを突き止めました。ビヤ暗殺に成功したらアメリカの永住権と5万ドルをやる、と言って條を抱き込みます。
ある日の朝、條はビヤのコーヒー茶碗に毒を塗りつけて、逃亡します。成功間違いなしでしたが、その日に限ってビヤの茶碗でコーヒーを飲んだのが副官でした。條はうまく逃げましたが、ビヤは怒り狂いました。オレを裏切った憎き日本人め、といってメキシコ北部に住む日本人移民を探し出しては、復讐に走りました。それで数人が殺されました。関係のない日本人には迷惑千万でした。
銃殺されそうになった
革命時代は混沌としていました。
大統領が反革命勢力に幽囚されたことがありました。大統領の家族は危険を感じて日本の公使館に逃げ込みました。このとき、篝火を焚き、日本刀を持って公使館を警備したのが、日本人移民20数人でした。お家の一大事、というわけです。このときの公使は堀口九万一で、堀口大学のお父さんでした。堀口公使はブラジルに赴任したこともあります。
公使館はメキシコの情勢を逐一日本に知らせなければなりません。公使館から電報局までは2キロぐらいありました。街は革命戦で銃弾が飛び交っています。よし、オレが電報うちに行ってくる、と役目を果たしたのが移民のうちの照井亮二郎(岩手県出身)という人でした。
公使館近くに別の国の公使館もありました。皆んな怖くて電報局に行けません。照井はまとめて電報局に「おつかい」に行ったようです。
その他、革命に関係したいろいろな日本人がいました。……スパイ容疑で銃殺されそうになったが、隙をみて逃げ出した………連隊旗を身体に巻きつけて戦ったが、最後は降参して敵の捕虜になった………革命軍に参加して負傷者の手術をしたらうまくいって、それから軍医になった炭鉱移民………毒ガスを作って革命軍に売りつけようとしたが失敗した、など多士済々でした。
中には革命軍の兵士でありながら、戦闘に行く汽車の中でサンドイッチを作って小遣い銭を稼ぐちゃっかり屋もいました。さすが日本人です。
当時、革命軍に参加した日本人は300人ぐらいいたようです。中には政府軍に「就職」した日本人がいたかも知れませんが、このあたりははっきりしません。
テキサス独立運動にも加担
最後に、テキサス独立運動に参加した日本人のことです。
1915年の暮れでした。メキシコ革命が落ち着いて来たころです。「テキサスはもともとメキシコ領だった、オレたちの手で取り戻そう」という動きがテキサス州に起こりました。テキサス州内に住むメキシコ人たちが中心でした。しかし武器がありません。彼らはメキシコの大統領に武器の供与を求めて来ました。
そこで政府内のある知恵者が、日本人の参加を呼びかけて来ました。
「アメリカは君たち日本人を嫌っている。オレたちと組んで、アメリカにいっぱい食わせようじゃないか。日本人は勇敢だ。きっとうまくいく」
ある陸軍の中佐が日本人を集めてくれ、と吉田俊二という日本人に声をかけました。吉田は早速ぶらぶらしている日本人を集めました。日給が3ドルから5ドルだという報酬に何人かが飛びつきました。
正月になって、アメリカ目指して汽車の駅に集まりました。日本人が8人、メキシコ人が15人でした。日露戦争の満州参謀長だった児玉源太郎の甥倫太郎がいたと言いますから、移民の他に特殊な人がいたようです。
汽車はアメリカ国境に向かって出発し、途中で日本人が5人加わりました。国境近くの駅に着くと、ウィンチェスター銃と弾丸100発が渡されました。
中佐の命令では、国境を越えてテキサス州に入ったら「ビヤ万歳、と叫びながら鉄砲を撃て。これはまず最初の模擬戦である」と言ったので、その通りにして、すぐメキシコ国内に戻って来ました。
独立運動はそれだけでした。「なにがなんだかよくわからなかった。日当はくれなかったが、遊覧旅行したと思えばいい」と後日、吉田は述壊しています。
児玉倫太郎らはそれからキューバに行きましたが、彼らがどうしてテキサス独立運動に参加したのか、全く不明です。
とにかく、日本人移民の中には元気すぎる、言い換えれば大言壮語型の人もいて、地道にメキシコで商売したり、農業したりではつまらなかったようです。一発ねらって機を伺う人が多く、山師も何人かいました。
吉田俊二(1899年和歌山県生まれ)は、1914年、15歳でメキシコにやって来た少年移民でした。
(※荻野正藏 : 1946年、茨城県生まれ。1970年からメキシコ在住。日本語新聞「週刊日墨」を主宰。著書に『日墨交流史』、『海を越えて500年』、『真珠湾攻撃を決断させた男』など。