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中島宏著『クリスト・レイ』第19話

「こんにちわ。大分待たせたかしら。一応、時間通りに来たつもりだけど」 「いえ、アヤ先生、私の方が約束より早く着きましたから。私が待つのは当然です」 「そう、それならいいけど。ところで、どうしょうかしら、二人で歩きながら話をしますか。それとも、どこかに座って話した方がいいかしら」 「あ、それは、先生にお任せします。私はどちらでも構いません」 「そうね、じゃあ、歩きながら話しましょうか。少し疲れたら、適当な所で休んで話を続けるということにしましょう。一応ねマルコス、私は日本語で話しますからね。あなたの勉強にもなるし、その方がいいでしょう」 「もちろん、それで結構です。もし、難しい言葉が出てきたら、先生がポルトガル語に翻訳して説明して下さい。お願いします」  マルコスは、いざ話し出してみると、意外にスムーズな会話ができているので、やや安心し、落ち着きを取り戻しつつあった。さっきまであったちょっとした興奮状態は、かなり治まっていた。ただ、それでも心臓のときめきだけはまだ、続いている。
アヤが来た方向とは反対の方に向かって、二人は歩き始めた。緩やかな傾斜を持つ坂道をゆっくり上っていく。土曜日の午後ということもあって、学校には人影がなく、教会の建築現場もひっそりとしていて、人の気配はなかった。林に囲まれたような感じの坂道を二人は歩いていく。 「あのね、マルコス、ちょっと言って置きたいんだけど、今日の私はね、あなたの先生ではなく、何と言ったらいいかしら、そうね、今日は友だちということだから、その、私を先生と呼ぶのはやめてもらえませんか。授業以外の所では、私のことアヤと呼んでかまいませんからね。それとね、こうやって二人で話すときは、もっと楽な気持ちで話したらいいから、あまり丁寧な話し方をしなくていいのよ。そういう話し方だと、堅苦しい感じで、思ったようには話せないでしょう」 「はい、あ、いいえ。やはりそうは言っても先生ですから、丁寧に話さないと失礼ではないかと、私は思います」 「ですから、今日は私は先生ではないと言ってるでしょう。友だち同士のときは、もっと楽な話し方でいいのよ。それに、男の場合は、友だちと話すときは自分のことを私ではなくて、僕と言った方がいいわね。まあ、俺という人のほうが多いんでしょうけど、あなたの場合はブラジル人ですから、僕というふうに覚えて置いたほうがいいでしょう。この私の説明、分かりますか」 「そうですね、何とか分かろうと思っていますが、本当のところはよく分かりません。私、あ、いや、僕は、丁寧な話し方をするのが、きれいな日本語だと思いますが、そうではないのですか」 「うーん、確かにそれはそうだけど、時と場合にもよるわね。たとえばねマルコス、あなたが友だちと話すとき、もちろん、ポルトガル語でよ、そんなとき、どこかの偉い人と話すような喋り方はしないでしょう。もっと、ざっくばらんで、言いたいことを言うといった感じでしょう、友だちと話すときは。それと同じことなのよ、私が言ってるのは」