「私の父ジョゼは平野運平の息子です」――聖市北部在住の榛葉(しんば)ジャナイーナさん(45、二世)はそう自己紹介し、子孫がいないと思われていた平野運平(1886―1919年)に孫が出現したことに、編集部では驚きが広がった。最も初期の日本人集団地の一つで有名な平野植民地の発起人、移民史の偉人といえる故人だが、子孫は周りに言えない悩みを持っていた。それゆえに今まで名乗り出てこなかった。7月16日、来社したジャナイーナさんに詳細を聞いた。
平野運平は静岡県出身で東京外語大卒、笠戸丸移民の通訳として渡伯し、グアタパラ耕地の耕主に仕事を認められて、副支配人にまでなった人物。奴隷代わりのコーヒー園労働では日本移民の将来はないと考え、日本人集団地建設を思い立ち、15年に有志を募って植民地建設を始めた。
ところがマラリアにやられて入植半年余りで80人が亡くなるという悲劇に襲われた。マラリア特効薬のキニーネは高価だった。平野運平氏は州政府に掛け合ったが入手できず、結局は土地代金に相当するような借金をして買い入れたと『平野二十五年史』(平野植民地日本人会、1941年)にはある。
いわく《平野氏ハ州政府農務局ニ此ノ窮状ヲ愬エテ、キニーネ錠剤ノ下附ヲ仰ギ弥縫一時ヲ凌ギ、尚又パウルー、ノロヱステ薬局ニ交渉シ、薬価先払ニテ薬品ヲ取寄セ、之レガ窮状二努メラレ、同局カラ買入レタル薬価ハ優ニ十三コントス七百ミルニ上レリ、常時ノ土地代金ニ相当スル額ニ達セリ。其ノ間犠牲者ヲ出ス事実ニ七十名ノ多数ニ及ベリ》(PDF版33ページ)
当時の13コントスといえば現在の3600万円に相当する大金だ。運平も19年に病死したので未払いのようだ。弁護士に相談すると《運平の相続手続きは、資産がなかったので、行われなれず、負債は未回収のまま消えたのではないかと思われます》とのこと。100年前の借金では証文も残っておらず時効は確実という。
だが名乗り出たら自分が背負うことになるのではと子孫は一世紀も黙りつづけた。
運平には内縁の妻中川イサノがおり、長男ジョゼが18年に生まれていた。運平が病死した後、その妻と運平の実弟榛葉彦平が1939年に結婚した。ジョゼは父親不詳、イサノの子とだけ登記されている。
出生証明書には父の名はないが、運平が生きていた18年4月にジョゼは出生しており、イサノと運平が同棲していたことは間違いない。そのイサノが後に彦平の妻となったという事実が、今まで知られてこなかった。
榛葉彦平は運平の呼び寄せで1914年に渡伯、平野植民地で日本語教師、22年からバウルーの聖州新報編集長、29年からブラジル拓殖組合バストス移住地事務所勤務、34年に同チエテ移住地、39年からトレスバラス移住地に支配人として就任した人物でのちに出聖した。
ジャナイーナさんは2018年、訪日を思い立ち、在聖総領事館にビザ申請したが断られ、翌19年にも断られた。その際、書類もなく平野運平の孫だとは言わなかった。その後、父ジョゼの日本国籍を死後取得する手続きをしたので、彼女は二世となった。その際、イサノや彦平の書類を日本から集めた際「運平の孫であることを名乗り出よう」と思い至ったという。
「パンデミックがおさまったら、ぜひ運平の故郷・掛川市を訪れてみたい。カフェランジア(平野植民地がある)にも行ったことがないから、ぜひ足を運んでみたい」とほほ笑んだ。