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日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(4)

2番目に創刊した『日伯新聞』の三浦鑿社主

2番目に創刊した『日伯新聞』の三浦鑿社主

 笠戸丸移民の多くが幼年期から思春期という人格形成期をすごした明治20年代(1887年~1897年)以降は、日本という国家自体もまた形成期でもあった。欧米列強に侵略されないように富国強兵を旗印にし、ドイツなどを模範にして矢継ぎ早に社会構造を根本から変えていった。
 サンパウロ州政府は当初、日本移民は試験導入しか考えていなかった。上流階級には「branqueamento」(人種の漂白化)思想が強く、〝漂白〟に適した白人で言葉も文化も同じラテン系で、同化が容易だと思われたイタリア移民導入が優先だった。
 しかし1914年8月に勃発した第一次世界大戦で欧州からの移民が跡絶え、聖州のコーヒー農園は著しい労働者不足におちいった。
 試験導入された最初の日本移民の中に、自分の土地を購入して日本人の植民地に住むという気運が高まりつつあった1916(大正5)年1月、最初の邦字紙である週刊『南米』が産声をあげた。
 移民会社批判と日本人の植民地の分譲広告をもって移民に歓迎された。労働者不足に悩む大農園主の訴えにより、聖州政府が日本のブラジル移民会社と向こう4年間で2万人の日本移民を導入する契約を交わした1916年8月末に『日伯新聞』が生まれ、翌年には『ブラジル時報』という創刊ラッシュとなった。
 このような邦字紙創世記を先導したのは北米からの転住者だった。
 1905(明治38)年にカリフォルニア州議会が排日法案を提出して1913(大正2)年に成立するという黄禍論の高まりをみて、北米に見切りを付けた者が南米に活路を求めた。

 週刊『南米』を創立した星名謙一郎、〝邦字紙創立請負人〟のように3紙の創立に関わる輪湖俊午郎、『ブラジル時報』創立者の黒石清作、『ノロエステ民報』の梶本北民、移民向け教養雑誌の最初『塾友』を創刊した小林美登利らだ。
 彼らは北米での苦い経験から、できるかぎりブラジル政府を刺激するような批判をさけ、移民の側が適応すべく自粛するような内にこもる論調をつくり、批判するなら移民会社や日本政府というのちに継承される基調を全体的に形成していった。
 黎明期の邦字紙に参加していったのは、元気よく日本を飛び出していったコスモポリタンだったが、おおざっぱにいって波瀾万丈派とインテリ派の2タイプある。
 前者の代表格はなんといっても、英語教師出身だがドイツ語もでき経歴に謎の多い日伯新聞の三浦鑿(さく)、日大予科時代に学生雑誌社の記者として平塚雷鳥や与謝野晶子、徳富蘇峰らとの面識のあった笠戸丸移民の香山六郎、早稲田大学文学部に学び正岡子規や河東(かわひがし)碧(へき)梧桐(ごとう)らと句座に列し「平民新聞」にも関与して笠戸丸以前に渡航した〝移民の草分け〟鈴木南樹(なんじゅ)、愛知県渥美半島の裕福な家に生まれて中学卒業後にシンガポールでうどん屋の出前持ちをしていた時にブラジル移民がはじまり、なんとなく有望に思えたので欧州経由でやってきた という金子保三郎らが代表格であろう。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)