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日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(6)

アルヴァレス・マシャード日本人墓地にある星名の墓

アルヴァレス・マシャード日本人墓地にある星名の墓

 前山隆によれば、ハワイで星名が関わった『日本週報』は「謄写版刷り、雑誌体で、表紙に英文紙名と日本字紙名が併記され、椰子の樹、ダイヤモンドヘッドらしき山、サトウキビの畑の挿絵が刷られている。『南米』の体裁と印刷法はすべてこれを踏襲している」とある。
 『日本週報』の発刊目的は「日本人労働者に弾圧的なハワイ移住民局の横暴を攻撃し、移民の権益を保護することだった」というから、『南米』の移民会社批判もこれを踏襲したものだった。
 最初の『日本週報』(1892年)から、星名が北米本土に渡った1904(明治37)年までの間だけで、ハワイでは実に30紙(誌)が盛衰するという邦字紙激動期をすでに体験していた。
 このような経験をもった星名にとって、24歳も年下の金子に対し、「君、新聞を出すのに活字は要らんよ」という言葉を吐くのは当然かも知れない。
 星名はその後、1901年に末光久子とハワイで結婚。1904年に北米本土に渡航し、同志社社長であった西原清東をたよってテキサスで米作をやり、この間に、後に同志社大学学長となる星名秦が生まれている。
 当時二十代半ばだった輪湖俊午郎は、「先輩は既に五十を過ぎて居たが、腕力では若い者も敵はぬ頑丈な作りであつた。額には深く刻まれた皺があり、三角形の眼は鋭い底光りを放ち、人と話す時には相手の顔をにらみつけ乍ら、濁つた低い声で用心深く要点だけを喋るのであった。当時誰も星名の前身を知るものはなく、とにかく只ものではないと評判されて居た」と書いている。
 輪湖は『日本人発展史』の中で、星名は「識見も高く筆もたち、当代稀に見る人物であった(中略)『週刊南米』は極度に星名自身の全人格に徹し過ぎ、この時代の読者層には難解の感さへあった」と評している。
 初物だけに興味を持たれたが、そのまま購読につながった訳でもなかった。当時、地方の植民地にいた香山は、「聖市における星名謙一郎の発行する週刊『南米』が創刊号より私に送附されていた。私はこれも植民地のインテリ達に回読させた。だが誰も購読する気はないらしかった。これに掲載された梅弁植民地の土地売り出し広告は皆の話題をさらっていた」と記す。
 また『四十年史』には、「パイオニア星名謙一郎の植民地経営は、当時、彼が経営する週刊『南米』のお手盛り広告ほど順調には進まなかった。彼は北米のながれものであり、闘争的面構えは、日本移民の平凡な信頼感をつかむには容易でなかったが、地価1域60ミル、年賦払いは当時貧しき日本移民に『土地が安く買える』との希望を沸かせた」(150頁)とあるように、最初の邦字紙は植民地広告を掲載する必然性から始まった。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)