《補講》明治維新とは何か
一国の統治者が、自らのその身分を廃して、新しい国家をつくった世界に例のない改革は、なぜ実現できたのか。
欧米の列国は、1800年には地球の陸地の約35%を支配していました。第1次世界大戦が始まった1914年には、その支配圏は約84%に達していました。
日本はその中で欧米列強の植民地化をまぬがれていました。明治維新は、まさにその時、日本で起こったのです。
もし、明治維新で中央集権国家ができていなかったら、日本は欧米列強の支配下に組み入れられていたでしょう。
このような欧米による領土拡大政策は、帝国主義と呼ばれています。日本が独立を維持し、大国の仲間入りを果たすまでの歴史は、こうした世界的な帝国主義の時代の流れの中で起こったのです。
日本が新しい時代に対応する政治体制を比較的早く確立することができたのはなぜでしょう。その大きな要因のひとつは、江戸時代の日本の政治にあったのです。
当時は武家政治の時代であり、江戸幕府が政治の実権をにぎっていましたが、江戸幕府の将軍を任命するのは、天皇であり、武士は天皇に仕える身分であるという関係は、古代日本より連綿として続いていました。
権威と権力は、独占されるものではなく、権威は天皇に、権力は幕府に帰属するものとなっていました。このように日本には、2つの中心がありました。
これが幕末の危機を回避する上で役立ちました。列強の圧力が高まると、幕府の権力は衰えましたが、天皇を統合の中心とすることで政権の移譲が短期間で成し遂げられたのです。
明治維新は、武士階級の自己犠牲による改革であったといえます。明治維新によって身分制度が廃止され、四民平等の社会が実現しました。しかし武士の特権はなくなり、武士の身分そのものがなくなりました。
武士の身分を廃止したのは、ほかならぬ武士の身分の人々によって構成された明治政府でした。日本の特権階級であった武士は、他の階級によって倒されたのではありません。
外国の圧力を前にして、自ら革命を推進し、自らを消滅させるという犠牲を払ったのです。武士達の望みは、日本という国の力を呼びさますことだったのです。
この改革は世界に例を見ないもので、武士たちは公のために働くことを自己の使命と考えていたからこそ、明治維新が起こったのです。
明治維新の改革において、新しい国づくりの基礎とされたのは教育でした。教育を重視する思想は江戸時代から引き継がれたものです。
長岡藩(新潟県)は幕府の味方をして戊辰戦争に敗れ、戦乱と洪水で深刻な食糧不足に悩まされていました。近隣の藩より米100俵が見舞いとして送られてきましたが、藩の責任者の小林虎三郎は、一粒の米も藩士に分けず、将来のために、国漢学校という藩の学校を開設する資金に回しました。
将来に備えて資源を人づくりに重点的に使うこのような思想(米100俵の精神)が、日本の近代化を成功させる基になったのです。
近隣諸国と国境画定
明治維新を成し遂げた日本は、近代国民国家の建設を目指した。近代国家が成り立つ要件は、①明確な国境線を持つ領土、②国民、③国民を統治する政府の三つである。国境があいまいなままだと、政府は国民の生命や財産を保証したり国民としての平等な権利を与える範囲を決めることが出来ない。
北方領土の画定については、1679年に、樺太(カラフト=サハリン)に松前藩の陣屋があったとされているが、1855年には徳川幕府とロシアとの間で日露和親条約が結ばれ、北方四島(ハボマイ、シコタン、クナシリ、エトロフ)までを日本領、それより北はロシア領と決めた。
樺太(サハリン)はロシアとの国境線を決めぬまま、日本とロシアの混住地とした。1875年になってロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。その内容は、日本が樺太全土をロシアに譲り、その代りに、千島諸島(クリル諸島)を日本領にするというものだった。
1945年8月9日(大東亜戦争終結1週間前)ロシアは、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本に対し宣戦布告すると同時に満州国に攻め込んだ。ロシアは北方四島を侵略し、現在に至るまで、占領したままとなっている。
太平洋諸島については、小笠原諸島は全て日本の領土であることを、1876年に世界各国に知らせ、了解をとっている。
南方諸島に関しては、日本は清国との間で1871年に、日清修好条約を国際法に則り結んだ。そして琉球(現在の沖縄)は鹿児島藩の管轄に置くと決めた。
同じ1871年に、琉球民54人が宮古島で難破して台湾に流れ着いたが、現地の台湾人は彼らを皆殺しにした。日本政府は清国に対して責任を問うたが、「台湾に住む原住民は化外の民であり、清国とは関係がない」と返事してきたので、1874年になって日本は台湾に兵を送った。清国との協議の結果、琉球島民を日本国民であると両者は認めた。
それにより、1879年、「沖縄(琉球)」は日本のものとし、沖縄県を設置した。1894年に起こった日清戦争で日本が勝ち、それ以来、台湾は日本の領土となった。日本はこうして、近隣諸国との間の国境をほぼ画定した。
岩倉使節団と征韓論
1871年、廃藩置県が無事済んだ後、政府は岩倉具視を全権大使として、政府要人である木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通など政府要人の約半数と共に女性、子供を加え総勢150名の大使節団をアメリカと欧州に1年8ヵ月にわたり派遣した。
この視察により日本の西洋に対する遅れは 40年と見積もられ、近代産業の確立と富国を推進することを国家目標として定めた。
朝鮮は、日本との外交関係を結ぶことを拒否した。士族の間では、日本に対する態度を無礼だとして武力を背景に、朝鮮に開国をせまる征韓論がわきおこった。
廃藩で失業した士族は、明治政府が行う西洋技術や文化の導入政策は、彼らの受け継いできた武士の気概と日本のよき国柄を損なうとして、不満を抱いた。
西郷隆盛は士族に対する同情を持ち、何らかの仕事と名誉を与えるべきと考 え、朝鮮の門戸を開かせようとしたが、海外視察から戻った人たちは、欧米の力を知り、朝鮮のことは後回しとして、富国強兵を国家目標とした。
そのため留守番組の維新の志士達は、新政府より離別し、郷里に帰ってしまった。政府高官として働いていた薩摩や土佐の元武士達は、西郷や板垣に続いて、ぞくぞくと東京を離れていった。
1876年、秩禄処分(ちつろくしょぶん=士族に払っていた給金を一時金と引き換えに打ち切り)を発表、同年、「廃刀令」(はいとうれい=刀を取り上げること)が発せられた。刀を取り上げられた武士達は、誇りを傷つけられ、怒りを爆発させた。
熊本、福岡、山口などの士族達は叛乱を起した。しかし徴兵を主体とした政府軍には近代的装備や新式の火力、指揮能力が高い上に通信手段も持ち、これらの叛乱を全て鎮圧した。
鹿児島の士族達の政府に対する不満は極めて強く、1877年には、県政を掌握した。新政府の西郷暗殺の噂などに激昂し、西郷を総指揮官として兵を挙げ、東京に向かった。
新政府の鎮台が置かれた熊本城攻略に失敗し、また九州各地の戦いでも敗れた反乱軍は、追い詰められていった。反乱軍は各所で壊滅状態となり、最後には西郷が自刃(じじん-はらきり)し、戦争は終わった。
この戦争を「西南戦争」という。武士の時代はこれで完全に終わり、明治維新の体勢が出来上がった。これ以降、叛乱はなくなり、国民皆兵体制が定着していった。
殖産興業と文明開化
明治政府は、富国を目標にする方法として産業を興すことを考えた(殖産興業)。1872年、群馬県富岡に官営の製糸工場を造った。政府が富国を目標に最初に造った官営工場である。
全国から士族の子女を集め、技術を習得させ、地元に帰って機械製糸の指導者を養成した。生糸はこの後、日本の主要な輸出品となり、輸出総額の70~80%以上を占めた時期もあった。
欧米はアジア・アフリカ諸国の植民地化を進めたが、日本はそれに対し、富国強兵策をとり、白人による植民地化を防ぐため、国民が一丸となって国造りに励んだ。
1868年、政府は幕府が経営していた鉱山や造船所などを官営にした。1869年には、電信制度、続いて 1871年には郵便制度がしかれ、さらに1872年には、新橋~横浜間に鉄道が開通した。
大久保利通らは殖産興業を進めるために、外国の機械を購入し、技術者を招いて、製糸、紡績、炭鉱、銀鉱、銅鉱、造船所、セメントなどの官営の工場を各地に造り、後に民間に払い下げ、工業発展の基礎とした。
また政府は、1869年、蝦夷地を北海道と改称し、開拓使という役所をおき、士族や屯田兵を入植させて開拓に力を入れた。
明治政府は、1867年、奈良時代から続いてきた神仏習合の慣習を改めようと考え、神社から仏教色をなくす「神仏分離令」(神社とお寺を分ける法令)を定めた。
1870年、日本古来の神道を天下に布教せよとの「大教宣布のみことのり」(神道を天下に布教すること)が発せられた。政府はこれによって神道による国民意識の統合を図ろうとした。
しかし、そのために各地で寺院や仏像を破壊する過激な動きが起こった(廃仏毀釈)。行き過ぎた動きを見た政府は、神道・仏教・儒教の3教により国民の意識を統合する方針に切り替えた。
また西洋化を進めるために、1873年には太陽暦の採用(1日 24時間、1週間7日、日曜日は休日とする)やキリスト教の信仰も認めた。福沢諭吉の『学問のすすめ』などの啓蒙書が出版され、実力がものをいう社会の中での、独立自尊の精神の大切さが説かれて、広く読まれた。
多くの新聞や雑誌も発刊され、欧米諸国の生活や風俗、思想を紹介するようになった。人々の生活にも大きな変化が生じた。東京などの都市では、洋服・シルクハット・ワイシャツなどの着用、人力車や馬車が走る文明開化の光景が出現した。
《資料》 明治維新の特徴
①身分制度が変わり、四民平等になったこと。
②自由に経済活動が出来るようになったこと。
③武士は自分を犠牲にしても、国の力を呼び覚ます方向に動いた(天皇制の復活)。
④武士は公のために働く事を自分の使命と考え、理想を実現し、改革をやり遂げた。
⑤新しい国造りの基礎を学制におき、江戸時代から続いた教育を重視する精神が生きた。