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日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(10)

ブラジル時報の紙面(「南米写真帳」、1921年、永田稠より)

ブラジル時報の紙面(「南米写真帳」、1921年、永田稠より)

③『ブラジル時報』
 1916年8月にブラジル移民会社が4年間で2万人の日本移民を導入する契約を聖州政府と交わしたことを聞きつけた週刊『南米』の星名と、創刊したばかりの『日伯新聞』の金子、輪湖の3人が同移民会社支配人の神谷忠雄を訪問した。
 3人は活字の寄付を要請したが、神谷は突っぱねた上、移民会社に批判的な邦字紙をこのまま放っておいてはいけないとの危機感をいだき、自前の新聞の創刊を決意した。
 「神谷は此会見で聊(いささ)か癪に障(さわ)ったばかりでなく、此2新聞は移民会社の邪魔になると考え、今の内に叩き潰ぶさうと決心してブラジルを出発し、北米経由で急遽帰国したのであった」という流れの中で、北米新聞記者の黒石清作を移民組合の「移民教育部長」の肩書きで呼び寄せ、『ブラジル時報』を創刊することになった。
 黒石は最初から活字と印刷機械と印刷工まで携え、1917年6月の移民船で到着した。この時に印刷工として黒石と共に渡伯した萩原善五郎(東京都)がのちに「サン・ジューゼ印刷所」 を開き、邦人初の個人印刷業者となる。
 1917年8月31日の天長節を期して『ブラジル時報』(Notícias do Brasil)が創刊(Rua Cons. Furtado,39 S.Paulo)された。松村総領事はその話を聞いた当初、「移民会社が新聞を持つことは怪しからん」と反対したが、神谷は「編集は一切総領事の監督下に置くから御諒承を願いたい」と譲歩の交渉をし、さらに「黒石にブラジルの事が解る筈がないから、編集に君(輪湖)を入れることを条件とした」 という体制を整えた。
 週刊『南米』、『日伯新聞』それぞれの立ち上げに関わっていた輪湖が、総領事館の意向を受けたお目付役のような立場で関わることになった。輪湖は新聞社の立ち上げ屋のような存在だった。
 この経緯が示すとおり、黒石が書いた社説原稿はいったん総領事の検閲を受けた上で毎週掲載されたので、両者の関係はすこぶる良好だった。1921年3月25日付け社説「修養大切の時期」では、「在留同胞がややもすれば惰弱に流れて自己修養を怠っているのを見るのだが、こんなことでは到底第一流の民族として世界に雄飛することは覚束ない。(中略)在伯の同胞たちが、物質だけに走り、飲酒に浸り、色に溺れて酔生夢死するようでは、日本民族の海外発展は全くここに生命を失うことになるのを悟るべきである」など道徳的に諭しているのはその一例だ。
 清谷益次は「全般的に知識水準の低かった移民たちからはほど良い指導的な内容を持つものとして歓迎され、尊敬されるということも生じていた。層の厚い支持者、ファンを常に持っていたのは、あながち移民の総元締め的存在の海興や出先官憲の影を時報の背後にみたからばかりではなかったと思われる。移民たちには教訓調、修身型に弱い習性もあったのだった」 と分析している。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)