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アジア系コミュニティの今=サンパウロ市で奮闘する新来移民ネパール編<2>

世界で仕事を見つける

 

店舗でのガネッシュさん

店舗でのガネッシュさん

 「ブラジルではもう8年ほど過ごしました。そろそろ他の土地で仕事をしたいという気持ちもあり、日本も訪ねてみたいです」。“世界で武者修行”という言葉がしっくり来るのが、ネパールのタナフン郡出身のガネッシュ・プラサダ・グルンさん(42)。
 2006年からサンパウロでインド衣料品を販売していたおじを頼って、2012年に新しい仕事を求めてブラジルに来た。今年3月にコロナで外出自粛となるまでは、ブラス区のインド服飾雑貨店が集まるビルの一角でインド服の卸・小売り販売を行う『OM-Ganesh』を営業していた。
 「この半年は閉店。6月に入って4時間営業が認められてからは、倉庫にお客さんが商品を購入しに来るようになり、9月末からはようやく店も再開できる見通しが出てきました」と落ち着いた口調のガネッシュさん。
 インドで買い付ける商品の入荷も滞っていたが、9月中旬にはパラグアイに商品が届き、再び国境を越えて商品を受け取りに行く事ができるようになった。
 ガネッシュさんはネパールでは本の販売や米、トウモロコシなどを栽培する農耕に従事していたが、ネパールの国内経済だけでは食べていくのは厳しく、より良い仕事を求めて、ブラジルに来る前はアジア各国で就職してきた。
 マレーシアでは警備の仕事を4年、アフガニスタンではイギリス企業で傭兵を3年、サウジアラビアでは市場の経営管理を4年ほど務め、その後ブラジルに来た。
 13年までネパールにはブラジル大使館が設置されていなかった。そのためビザなしで入国できるボリビアに一旦移動し、現地のブラジル大使館で短期滞在ビザを取得し、サンパウロにバスで向かった。
 サンパウロ到着後は連邦警察で難民申請を行い、プロトコールを取得。プロトコールの取得と同時に労働手帳も得られ、会社番号(CNPJ)や納税者番号(CPF)も得て、これまでの生活には何の問題もなかった。
 しかし、今も難民認定はされず、永住権を得ることはできていない。おじは7年過ごしたここを後にし、13年には米国に再移住した。
 第一言語はネパール語、次いでヒンディー語、そして英語を使用して来たガネッシュさん。ブラジルに来た当初こそポルトガル語に不自由したが、今は慣れたと言う。
 深夜にブラス地区を歩いていた時に泥棒に遭い、サンパウロの治安の悪さを改めて実感したものの、サンパウロの生活は満足している。アジア各国を渡り歩いてきた度胸が財産で、パンデミックで仕事がストップしたのも人生の一こまと捉え、落ち込むこともない。


助け合うネパール人コミュニティー

店舗でのガネッシュさん

店舗でのガネッシュさん

 現在、ガネッシュさんは国際的なネパール人ネットワークである海外在住ネパール人協会(Non-Resident Nepali Association (NRNA GLOBAL))ブラジル支部代表を務め、定期的にサンパウロで生活するネパール人と連絡を取り合い、近況を確認し合う。
 同協会は、外国で蓄積されたノウハウと資本をネパールに還元し、ネパールの平和と繁栄、発展に貢献する目的で2003年にネパール政府公認で設立された。世界中の在外ネパール人ネットワークのつながりを強化する狙いもある。
 ブラジル支部では、病気など大変な状況にあっても自己資金のない人には、皆で少額を出しあって助け合い、8月にはどうしても帰国する必要のあるメンバーに飛行機チケット代を購入した。
 パンデミック以降、仕事が減少して時間ができた事から、ガネッシュさんは海外在住ネパール人協会の代表として、難民と移民を支援するNGOのボランティアにも参加し、仕事が停滞したネパール人のためにもセスタ・バジカの配布に取り組んできた。
 「将来の夢は家族とネパールで一緒に生活すること」。ガネッシュさんは12年にブラジルに来て以来、一度もネパールには戻っていない。
 妻(38歳)と娘(20歳)は両親とともにネパールで暮らし、3人いる妹の内、一人は韓国で働いている。今年1月に長男(24歳)が父親を訪ねてブラジルを見聞する目的でサンパウロに来て、短期で帰国する予定だったが、パンデミックで思いがけず9月にネパールの国際空港が再開するまでの滞在となった。(つづく、大浦智子さん取材・寄稿)