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中島宏著『クリスト・レイ』第60話

 「アヤの場合はどうかな。日本からこのブラジルという、まったく環境も風習も言語も違う国にやって来て、ここでこれからの自分の人生を新たに築き上げようというとき、何というか、その、迷いというようなものはなかったのですか。
 もちろん、あなたの場合はそれが最終的なものではないにしても、一応、キリストの教会というものがいつも一緒にあるから、まったくゼロからの出発ということではなかったのだろうけど」
「そうね、私の場合は教会が背後についていて、それが強い拠り所になっていることは確かね。もしこれが私一人だけだったら、こういう異郷に立たされたとき、かなり厳しい状況になっていたことは間違いないでしょうね。とにかく有無を言わさず、現実の世界に放り出されるのですから、簡単なことではないわね。
 もっとも、そんなことはこちらに移民して来た人たちはすべて同じように経験していることでもあるし、同時にまた、その苦痛は大変なものでしょうけど、でもそれがまあ、国を移し替えるということの代償みたいなものじゃないかしら。つまりそれは、移民としての過程というふうにも言えるように思うの。
 ブラジルに来ることについて迷いはなかったかということだけど、前にも言ったと思うけど私の場合は、その点はほとんど何もなかったわね。確かにこの国は、今まで私が生きて来た国と比べれば、まったくの異郷といえるけど、でも、だからといって人間が住めないという所でもなく、何の希望もないという所でもないから、そのことに関しては最初から私は何の疑問も持たなかったわ」
「つまり、アヤの場合は、国を移すことによって新しい人生を切り拓いていくことが、ひとつの生きがいというふうになるわけでしょう。それまでの人生を一旦、切り離してしまって、そこからまったく新しい生き方が始まっていくということになるわけですね。
 まあ、移民ということはそういうことだけど、でも、そこまで考えるにはかなりの覚悟が要るのではないですか。まったく新しい世界で、自分のこれからの人生に賭けるということだけど、そこには何の保証もないし、約束されたものがあるわけでもないでしょう。その辺りはかなり大きな冒険のようにも見えますね。
 特に、僕のようにそういう経験を持たない者にとっては、何だかそれは、かなり厳しいものとして映ってしまうけど」
「でもね、マルコス、私たちの人生ってみんなそうじゃないかしら。
 最初から自分の人生が分かっている人なんて誰もいないでしょう。また仮にそういうことが分かっていたら、すべての人が冒険なんてしなくなってしまうでしょう。そうなったら、この世の中、面白味も何もない味気ない世界ということになるのじゃないかしら。少なくとも私はそういうふうに考えるわ。もしそうなら、ブラジルまで来て生きていくという意味もなくなってしまうことになるでしょう。ねえマルコス、あなたそう思わない?」