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中島宏著『クリスト・レイ』第65話

 それでもね、マルコス、それでも私たちの先祖はキリスト教を失うことはなかったわ。常に、キリストの像は心の中に生き続けて、それが片時も消えるということはなかったということね。
 だからね、私の言いたいのは、たとえ教会という形が存在しなくても、信仰心がそれによってなくなってしまうことはないということなの。教会というものが、象徴的なものにすぎないというのは、そういう意味でのことなのね。それが必要ないということじゃなくて、それがなくても生きていけるということを言いたいわけ」
「うん、その点は僕にも分かります。特にそれが、隠れキリシタンの人たちの心情と重なり合うという点で、それをもっとはっきり理解できるという感じになってくる。
 でもね、アヤ。ここであなたたちが、こうして一生懸命あなたたちの教会を造るという意味はなんだろうという疑問も、同じように湧いてきます。このことは前にも聞いたけど、同じキリスト教であり、カトリック教であっても、このブラジルのカトリック教会とはまた、別のものを造ろうとしている。もちろん、言語の問題ということは分かるけど、でも、アヤのように努力することによってポルトガル語は話せるようになるわけだし、そうすれば、たとえばプロミッソンの町の中心部にある、あの教会でミサを捧げたって別に問題はないと思うけど、どうしてそれをしないのでしょう」
「そこがね、マルコス、かなり微妙で難しい問題でもあるわね。
 理屈から言えば確かに、あなたの言うとおりなんだけど、でも、今の私たちにはそれができない。言語の違いということもあるけど、それだけでもないと思うの。
 同じキリスト教だから、もちろんすべてが聖書に基づいているし、教えが違うということもあり得ないから、たとえ言語の不自由さはあっても、お祈りの中身が変わることはないわね。だったらマルコスも言うように、ここのブラジルの教会へいってお祈りすればいいという理屈にはなるんだけど、しかし、現実にはなかなかそうはいかないというところがあるの」
「それはたとえば、ブラジル流とは微妙な違いがあって、馴染めないということなのかな。同じカトリック教でも、自分たち流でやった方がしっくり来るとか、納得できるとか、そういうことなのかな。どうも、その辺りになると僕には簡単に理解出来そうもないけど」
「こういうことは、簡単に説明できるというものでもないわね。
 前にも話したことがあるけど、日本という国が近代化して明治という時代になった時、そこで初めて宗教の自由が日本政府から全面的に認証されたわけね。その時点でキリスト教も晴れて正式な宗教として認められたから、それまで文字通り隠れていた、隠れキリシタンの人たちも堂々と表に出て、その存在を示すことができるようになったということね。そこで早速、ローマから日本へカトリック教の指導者たちが派遣され、それらの隠れキリシタンの人たちとの接触が始っていったのだけど・・・」