デカセギ子弟の中には中学校教師になったり、司法試験に合格し弁護士になったりする者も出てきている。ブラジルに留学する大学生も一部では誕生しているが、こうしたルートから外れてしまう者も少なくない。GKのメンバーで高校を卒業した者はいない。
「なんでこんなに惨めなのか、この団地に生まれたのを怨んだこともあるよ」(Swag-A)
親たちは人材斡旋会社から派遣される職場で働き、不要になれば真っ先に解雇される。2008年のリーマンショックの時、多くの日系人が職を失った。
ACHAの母親は苦労して金を貯め、ペルー料理店を開いた。その直後にリーマンショック、料理店はすぐに閉店に追い込まれた。
2011年、ACHAの両親は一時ペルーに帰国した。日本にはACHA一人だけが残った。当時、彼はまだ15歳、アパートは電気料金滞納で止められた。食事は双子の家で食べさせてもらっていた。
「お前もやってみろって、ドラッグを先輩に勧められたけど興味がなくてやらなかった」
しかし、一人暮らしを始めたACHAはドラッグを試しに吸引してみた。「一度やったら止められなくなってしまった」。
当時は脱法ドラッグとして磐田駅前や浜松市内でも売る店があった。ドラッグを吸引するストローを加えながら、買いに行くようになってしまった。
団地の中はますます荒んでいった。どこにも身の置き場のない彼らは団地内にある集会所前に集まるようになる。
本当の暗闇は何も見えない。自分の手も足も、近くにいる仲間の顔さえも見えない。
〈見えないが寄り添う〉「(Real daily)」
集会所の前には、今は取り外されてないが、以前は自販機が置かれていた。10円玉一個を挿入すると、自販機が点灯しドリンク類を映し出す。その灯りの前に集まり、彼らは何を話すでもなく夜を明かした。
「自販機の灯りは、俺たちにとっては“神の灯り”だったよ」(Flight-A)
10円玉が灯す明かりだけが彼らの希望の光だった。
暗闇を手探りで動き回る彼らの指先に何かが触れた。
「これなら俺たちにできるんじゃないか」
誰かが言った。
手にしたスマホにはユーチューブの動画が映し出されていた。
高校生ラップ選手権の様子が動画で流れていた。
ラップは韻を踏みながらリズミカルに歌う音楽で、1970年代、ニューヨーク市ブロンクス区で行われていたパーティーから生まれたとされる。
参加者の多くは黒人、ヒスパニック系の若い貧困層。当時は治安が悪くギャング同士の抗争が頻発していた。ラップへの支持が広がる中で、ギャング団の若者たちは暴力ではなく音楽で自分を表現するようになっていった。
東新町団地にもラップに興味を持ち、自分なりにリリック(歌詞)を書き、歌いだしている者も出てきた。
「いくつかのグループがあって、最初はバラバラだった」(ACHA)
「俺たちはACHAとは違うグループでやっていた」(Flight-A)
それが集会所前に集まり、一つのグループとなった。それがGKだった。団地の周辺は緑の多い田畑、その近くの団地に住むワルガキ、そんな意味がグループ名には込められ、結成されたのは2013年だ。(つづく)
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