戦後間もないブラジルの日系社会で俳句が、二世の間で流行した。移民は錦衣帰国が目的で、永住する意思はなかった。
戦前生まれの二世たちの教育は日本語教育に重きが置かれていた。日本とブラジルの間で揺れ動く二世の複雑な心情を表現するのに、たった17音の詩が彼らの心をとらえたのだ。
しかし、俳句には季語を詠み込まなければならない。四季のないブラジルで俳句を詠むのには最初から困難が伴った。それでも彼らは自分たちで季語を作り上げ、俳句を詠んだ。それはブラジルで生きようとする日系人のアイデンティティを探す心の営みだったのかもしれない。
東新町団地で生まれた育った四世の心を引き付けたのがラップだった。ブラジル人の多い地区には、ブラジルから進出してきて、ブラジルのカリキュラムにそった教育する学校もある。しかし、こうした学校は授業料が高い。通えるのは一部のデカセギ子弟だけだ。
日本の公立小学校、中学校に通ってもいじめや差別、そして教育者の無理解。義務教育でさえ彼らには学ぶ機会が与えられなかった。
そうした彼らが自分の存在を考え、主張する手段がラップだった。
〈稼ぐためにやってねーし/好きな物を追いかけるだけ/誰かの真似とかじゃダメ/ボロボロの団地でオリジナルを学んできたぜ〉(「E.N.T」)
昼間は仕事で留守になる部屋に集まり、みんなでリリックを考えた。夜は集会所前の自販機のコンセントを引き抜き、オーディオ機器をつないで夜中まで練習した。当然住民から苦情も出るし、警邏中のパトカーに解散するように注意も受けた。しかし彼らの情熱はそれで終息することはなかった。
リリック作りは一人一人の心に沈殿していた思いを吐き出すことから始まった。
〈妬み嫉妬数え切れんほどくらった/外人だから差別も味わった〉(「Escape」)
ラップに夢中になると、ACHAのドラッグは止んでいた。
GKの名前が次第に静岡県、愛知県のライブハウスに知られるようになっていった。初めてのライブは2015年豊田市だった。トヨタ関連の企業で働く日系人も多い。彼らを応援する地元のファンもライブハウスに押しかけた。
すでに中学校を「卒業」した彼らは工場のラインやその他の職場で働き始めていた。
「ワンボックスカーにメンバー全員が乗って、呼んでくれるライブハウスがあれば、ノーギャラでどこへでも行っていました」(FlightーA)
一年間ノーギャラでライブハウスに出演した回数は63回。東名高速道を使っての移動で、高速料金、ガソリン代の費用もかかる。経費はメンバーが割勘で支払った。
「ライブがやりたくて、たった出番8分だけのライブにも行った」(FlightーA)
翌朝東新町に戻ると、そのまま出社して仕事に就いた。
知名度が少しずつ上昇し、ギャラを得られるようになった。彼らはそのギャラを貯金に回し、生活の糧はそれまでの仕事で得るようにしている。
GKを全国区に押し上げたのは、ギャラを貯めて2018年に制作した「E.N.T」のPV(プロモーションビデオ)だ。
「手元に小銭からダイヤ/こんな俺でも少し上がりだした」(「Worry」)
集会所の前で「E.N.T」を歌い上げる。周囲には団地の住民が彼らを見守る。団地のベランダ、階段と背景のシーンは変わる。そして最後は非常灯を点滅させるパトカーでPVは終わる。ユーチューブにアップされたこの動画の再生回数は現在30万回以上。(つづく)
GREEN KIDS – E.N.T