ホーム | コラム | 特別寄稿 | 知っておきたい日本の歴史=徳力啓三 | 知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(21)

知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(21)

終戦を巡る外交と日本の敗戦

 1945年2月、ソ連領クリミヤ半島のヤルタに米英ソ3国の首脳が集り、連合国側の戦後処理を話し合った(ヤルタ会談)。ここでアメリカのルーズベルト大統領は、アメリカの負担を減らす為、ソ連の対日参戦を求めた。
 ソ連のスターリンは、ドイツとの戦争が終わってから3カ月後に参戦すると回答した。その代償として、南樺太と千島列島を要求して、合意を取り付けた(ヤルタ秘密協定)。この密約は領土不拡大を宣言した大西洋憲章に違反していた。
 1945年5月、連合軍がベルリンに侵攻すると、ヒットラーは自殺し、ドイツ政府は崩壊、ドイツ軍は無条件降伏した。こうしてヨーロッパでの第2次大戦は終わった。
 一方、アジアでの戦いはアメリカ軍が3月には沖縄の攻撃を開始し、沖縄戦が始まった。この戦いで、沖縄県民にも多数の犠牲者が出た。日本軍もよく戦い沖縄県民も良く協力した。

沖縄戦。作戦会議を行う第32軍司令部、一番左が司令官の牛島、中央で指揮棒を持って説明しているのが参謀長の長(Cabinet Intelligence Bureau, Public domain, via Wikimedia Commons)

 日本では戦争終結を巡る議論が繰り返され、中立国ソ連に連合軍との講和の仲介を求めることに決まった。
7月ドイツのポツダムに米英ソ3カ国の首脳が集まり、26日、日本に対する降伏条件を示したポツダム宣言を米英中3カ国の名前で発表した。
 ポツダム宣言を受け取った日本側は鈴木貫太郎首相や主要閣僚が、条件付の降伏要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾いた。
 しかし、阿南陸軍大臣などは国体護持の保証がないとして反対し、本土決戦を主張して譲らなかった。ソ連の対日参戦決定を知らない日本政府は仲介の返事を待った。
 アメリカ軍は8 月6日広島に原子爆弾を投下した。8日にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告、翌日満州に侵攻し始めた。9日にはアメリカが長崎に原爆を投下した。

原子爆弾の投下によって発生したキノコ雲。左が広島で右が長崎(George R. Caron, Public domain, via Wikimedia Commons)

 同じ9日の深夜、昭和天皇ご臨席のもと御前会議が開かれ、ポツタム宣言の受諾について討論、賛否同数となり結論が出ず、鈴木首相が天皇にご聖断を仰いだ。
 天皇はこれ以上の国民の犠牲を避けるため、即時ポツダム宣言を受諾し戦争を終結することを決められた。
 8月15日正午、天皇陛下はじきじきラジオ放送に出られ、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知った。日本の降伏によって、第2次世界大戦は終結した。


《資料》ご聖断のときの昭和天皇のご発言

 1945年8月14日「……このような状態で本土決戦に臨んだらどうなるか、私は非常に心配である。あるいは、日本民族は、皆死んでしまわなければならないことになるのではないかと思う。そうなればどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るのか。一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来再び立ち上がってもらう以外にこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。……皆のものは、この場合私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない。私はこのように考えて、戦争を即時終結することに決心したのである」(迫水久恒書記官長の証言より)


《資料》 沖縄戦について・日米戦争の唯一の本土決戦

4月1日沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊( U.S. military or Department of Defense, Public Domain)

 1945年3月より始まった沖縄戦での日本側の軍民戦没者推計は、18万人余り。うち住民の死者は、約9万4千名を数えた。
 大激戦の結果、1945年6月23日、沖縄は完全にアメリカの物量戦に制圧された。沖縄戦の司令官・太田実海軍少将は「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と県民の献身的な協力と惨劇を本土に電報で伝え、自決した。


《補講》大東亜戦争とアジアの独立

 アジアの解放を掲げた日本は敗れましたが、アジアにあった諸国は植民地から解放され、独立出来ました。
 大東亜戦争のアジア諸国に対する影響としては、日本は自存を目的とした戦争を始めると直ちに資源獲得のため、当時オランダやイギリスの植民地になっていた東南アジアに軍を進めました。
 アジアの諸国は欧米の植民地支配に苦しんでいました。日本軍が着くと、「解放軍がきた」と歓迎され、戦争初期の日本軍の目覚しい勝利は、アジアの人々に独立の希望を抱かせました。


インドの独立と日本軍

 インドは16世紀以降、ヨーロッパ諸国の植民地支配を受けました。ムガール帝国を分割支配し、最終的にはイギリスが、他国を圧し、400年もの間インド全体を支配しました。
 第一次大戦後のインドでは、ガンジーらの英政府に対する不服従運動が起こり、独立運動が芽生えました。インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースは自前の軍隊をもった政府の樹立を考えていました。
 日本軍がシンガポールのイギリス軍の根拠地を奪取した時、1万3千人ものインド人兵士がイギリス軍の一部として捕虜となりました。日本軍はこれらの兵士を説得し、インド独立の為の国民軍としました。
 1943年10月、シンガポールでチャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府が出来ました。インド国民軍は「チェロ・デリーへ」(行け、デリーへ!)と叫びながら、日本軍と一緒にインドに向かって進撃を開始しました(インパール作戦)。しかし成功しませんでした。
 戦後、イギリスはインドの支配を続ける為に、独立運動をした人々を反逆者として裁判にかけようとしました。するとインドの人々は一斉に立ち上がり、独立を叫びました。
 大東亜戦争が終った後、1947年になってイギリスはインドの独立を認めました。

アジアを覆う独立の波

 日本が連合国に降伏すると、欧米諸国は日本の占領下にあったビルマ、マレー、インドネシアに再び植民地支配をしようと戻って来ました。
 インドネシアは、日本の占領中は独立を認められませんでした。戦後、多くの日本人兵士が現地に残りインドネシアの人たちと共に独立のために戦いました。
 ベトナム、カンボジア、ラオスの三国は、フランスの植民地で、戦前は仏領インドシナと呼ばれていました。日本軍はフランス政府の了解を得て、この地域に進駐していました。
 この地でも、日本が降伏後、フランスが戻って来ましたが、多くの日本の兵士が現地に残り、これらの国々の人たちと一緒に独立戦争を戦いました。

世界が見た大東亜戦争

 大東亜会議にも出席したミャンマーのバー・モウ初代首相の著書『ビルマの夜明け』には、「歴史を見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし、日本ほど誤解を受けている国もない。もし、日本が独断とうぬぼれを退け、開戦当時の初念を忘れなければと、日本のために惜しまれる」と書きました。
 そしてバー・モウは、日本軍の資源の収奪や横暴さに批判を加えながらも、日本の植民地解放の功績を称えました。
 タイのククリット・プラモード元首相は戦争回想記『12月 8日』に、「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産をして母体を損なったが、生まれた子供はすくすく育っている。12月8日はお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。更に8月15日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない」としたためた。


《補講》戦時国際法と戦争犯罪

 戦時国際法とは、1907年オランダのハーグで締結された「ハーグ陸戦法規」がその代表的な国際ルールです。人類は長い歴史の中で国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。残酷な出来事も絶えませんでした。
 たとえ戦時であっても、やってはいけないことを国際的に取り決めたルールが、戦時国際法と言われるものです。
★戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった兵士を虐待することは禁止する。
★軍服を着てないものに武器を持たせたり、戦闘に参加させることは禁止する。
★それらを捕らえた場合は一定の手続き後、ゲリラやスパイとして処刑を認める。


20世紀最大の戦争犯罪

東京大空襲。鎮火後の街の風景(English: Ishikawa Kōyō日本語: 石川光陽, Public domain, via Wikimedia Commons)

 沖縄戦でも本土の大都市への無差別爆撃でも非武装の民間人が標的にされ、多くの民間人が殺されました。1945年3月 10日の東京大空襲の攻撃命令を受けたアメリカ軍のパイロットは、「それは戦時国際法違反ではないか」と司令官に問いただしたと言われてれています。
 東京大空襲では一夜にして10万人の民間人が焼き殺されました。
 原爆投下では、広島で14万人以上、長崎で7万人以上の人が殺されました。その犠牲者は一般市民で、その被害の大きさは、20世紀最大の戦争犯罪であり、アメリカ軍が犯した最大の誤りでした。いずれも、1945年中に起こった悲惨な民間人の殺戮でした。

シベリア抑留

 1945年8月9日、ソ連は日本との中立条約を破って、満州・樺太に侵入し、日本の民間人に略奪、暴行、殺害を繰り返しました。
 ソ連は日本が降伏した後も侵攻をやめず、日本固有の北方領土の占領を終えた時には、既に 9月になっていました。
 さらに、捕虜は即座に帰国させるとしたポツダム宣言の規定に違反して、捕虜を含む60万人以上の日本人をシベリアなど各地に連行し、満足な食事も与えず、過酷な強制労働に従事させました。
 そのため、分かっているだけでも、抑留中に6万人以上の日本人が死亡しました。
 これら戦争の勝者である連合国側の戦争犯罪は一切、裁かれることはありませんでした。

日本軍の戦争犯罪

 日本軍も戦争中に侵攻した地域で捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対し、不当な殺害や虐待を行ったことがありました。
 連合国側は、日本軍の犯した戦争犯罪を厳しく裁き、1千人以上の兵士がB級、或いはC級戦犯として処刑されました。その中には無実でありながら、誤った判決で、処刑された人も多くいました。

第6章 現代の日本と世界=昭和時代後半 ・ 平成時代

第 1 節 占領と冷戦

占領下の日本

 1945年9月、アメリカ軍を主体とする連合国軍による日本占領が始まった。アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカの脅威にならないよう、国家の体制を作り変えることだった。
 日本政府は存続したが、その上にマッカーサーが率いる連合国軍総司令部(GHQ)が占領軍として君臨し、日本を統治した。
 日本では戦時中検閲が行われていたが、占領下では報道に対する言論の自由は奪われ、占領軍は、30項目の報道禁止項目をもとに徹底した検閲を行った。
 これをプレスコードという。またGHQは日本を民主化することを基本方針としており、民主化のための5大改革指令を1945年10月に発した。
①婦人参政権の付与、
②労働組合の結成、
③教育の自由主義化、
④圧政的諸制度の撤廃、
⑤経済の民主化を発令した。
 また経済の改革として財閥の解体、大地主の土地を取り上げ農地の解放。その他、労働関係の改革として労働基準法、独占禁止法なども制定した。
 教育改革と称して教育基本法や学校教育法を制定し、政治改革と称して日本国憲法を制定し、民主化と称して新選挙法まで様々な改革指令を出した。
 沖縄と小笠原諸島のみはアメリカ軍が直接統治を行った。
 日本国は、ポツダム宣言により北海道、本州、四国、九州と周辺の島々のみを領土とされ、朝鮮、台湾など日清戦争後に領有・併合した領土を全て失った。北方領土は、ソ連によって不法に占拠され、現在まで続いている。
 また日本の陸海軍は、無条件降伏させられ、完全解体された。外地に居た軍隊も全て武装解除され、日本への復員が始まった。
 外地にいた民間人も全員日本に引き上げた。復員・引き上げは、戦後の大混乱の中で困難を極めた。シベリア抑留や中国残留日本人孤児など多くの悲劇を生んだ。

公判中の法廷内(写真秘録『東京裁判』、講談社、第1刷, Public domain, via Wikimedia Commons)

 1946年、GHQは国際法に違反して東京裁判を開いた(極東国際軍事裁判)。戦争中の指導的な軍人や政治家が「平和に対する罪」(事後法であり違法)などを犯したとして「戦争犯罪者」であると断罪され、25名が有罪判決を受け、うち 7名が死刑判決を受けた。
 またGHQは戦時中に公的地位にあった者など、各界の指導者約21万人を公職追放した。公職追放者の内訳は戦争犯罪者として軍人12万5657名、政治関係者3834名、その他軍国主義者4万6515名、合計21万6名。
 のちに政界、財界、言論界、教職者にも拡大され、約12万名が追放され、職を失った。
 1946年2月、GHQは、日本の国家体制を作り変えるため大日本帝国憲法の改正を求めた。
 日本側は民主化を進めるためには、明治憲法に多少の修正を施せば足りると考えたが、GHQは、約1週間後に自ら作成した英文の憲法草案を日本政府に示し、それを受け入れることを迫った。
 日本政府は、交戦権の否認などを含む草案に衝撃を受けたが、拒否した場合、天皇の地位が存続できなくなることを恐れ、やむなくこれを受け入れた。帝国議会の審議を経て11月3日、日本国憲法は公布された。