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中島宏著『クリスト・レイ』第96話

「もちろん、よく分かります。そういう返事はいかにもアヤらしいという感じですね。何事にも真剣に考え、取り組むという姿勢は、こういう交際という問題にもきちんと表れているということですね。分かりました。アヤがそういうふうに真剣に考えてくれるのだったら、僕もやはり、同じように真剣に考えてみなければなりませんね。
あ、いや、これまでの僕の気持ちがいい加減だったということではなくて、現実の問題も含めて、もっといろいろな角度から考えてみるべきだということです。 やはり、アヤも言うように、こういうことは感情だけでなく、難しいけど、冷静な頭も持たないと、本当の意味での交際ということには結び付いていかないことになりますからね。でも、結果はどうであれ、こういうふうに真剣に話し合えたことに、僕は大いに満足していますよ」
「それは私も一緒よ。これまで、特に最近は、胸の中で広がっていたもやもやしたものが、今度のことで一度に消え去ったという感じね。もっとも、マルコスも言ってたように、私の中でもこういう気持ちは一度に表れて来たということじゃなくて、徐々に、時間が経つにつれて大きく膨らんでいったということは事実ね。でも、その気持ちをはっきり言ったものかどうかは、結構迷ったわ。だって、あなたの方からはそれらしい素振りもなかったし、もし、あなたが私に対してそういう感情を持っていなかったとしたら、こちらの一人芝居のようになってしまって、恥をかくのはこちらですからね。
それにしてもマルコス、あなたはブラジル人としては意外に消極的というか、そういう感情的なものをなかなか表面に表さないというところがあるわね。何だか、その辺だけを見てると日本人みたい」
「それはね、アヤ、僕があなたという日本人を相手にしているからですよ。そもそも、きっかけが日本語というところから入っていったから、僕から見るとまったく違った文化や風習を持った日本のことは、ちょっと神秘的に見えて、これは勝手にブラジル式に対応してしまったら、礼に失するというような考えをいつも持っていましたからね。
それと、日本語の先生であるあなたに対して、たとえ慕情のようなものでも、そういう感情を表すことは、日本語を覚えるという最初の目的とは外れていくことになるから、これはなおさら失礼だと考えて、それを必死になって抑え込んでいましたよ」
「ハハハ、、、必死とはまた、おおげさな表現ね。何もそこまで感情を押し殺すこともなかったと思うけど、まあ、そこにマルコスの性格が出ているということになるのでしょうね。実は、私も似たような心境にあったということを告白しなければならないわ。
多分、同じような時期からだったと思うけど、私もあなたに対して特別な感情を抱くようになったの。それまでは何でもないごく普通の態度で接していたものが、ある日から突然というような感じで、何かが始まっていったわけね。最初、私はすぐにはそれが理解できなくて、一体この気持ちは何なのだろうと、驚いたくらいなの。
で、それが時と共に収まっていくどころか、どんどん大きく膨らんでいくわけね。そこから驚きがあせりに変わっていったわ。こんなことがあってはならない、これは単なる幻想のようなものだ、私が勝手に想像しているにすぎない、と、心の中では慌ててしまって、それこそあなたじゃないけど、必死になってそれを打ち消そうとしたわ。