冷戦の推移と日本の経済発展
1961年、東西に分断されたドイツでは、東ドイツが住民の西側への脱走を防ぐために東西ベルリンを隔てる壁を築いた。ベルリンの壁は、近代都市の中央を二重の壁で遮った。この壁は東西冷戦の象徴となった。この壁を越えて西ベルリンに脱出しようとした東ドイツ人は射殺された。ベルリンの壁は、1989年に崩壊、冷戦が終わりを告げた。
1962年にはソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争が起こりかけた(キューバ危機)。この時アメリカのケネデイ大統領は、毅然とした態度を貫いたため、ソ連のフルシチョフ首相は、ミサイルを撤去した。こうして米露の戦争は避けられた。
1965年、アメリカはインドシナ半島の共産主義を警戒し、ソ連や中国が支援する北ベトナムに対抗して、南べトナムを支えるため、直接軍隊を派遣した(ベトナム戦争)。
しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に対する非難が集まり、1973年、アメリカはベトナムから撤退した。2年後には北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立した。これによってアメリカの威信は傷ついた。
ベトナム戦争はフランスの植民地であったベトナムの独立運動が発端で、北側を共産主義陣営、南側を資本主義陣営が支援する冷戦時代の代理戦争であった。
1970年代になると、アメリカのニクソン大統領は、激化していた中ソ対立を利用してソ連を牽制し、同時にベトナム戦争を終結させようとして、中華人民共和国に接近し、米中両国関係は正常化に向かった。それを受けて日本の田中首相は日中共同声明に調印し、日中の国交正常化が実現した。
一方、台湾に本拠をおく中華民国との国交は断絶した。その後、1978年には日中平和友好条約が結ばれた。
同じ頃、中東の産油諸国が石油の輸出規制をしたため、この地域の石油に依存する日本経済は、1973年と1979年の2回にわたり、深刻な打撃を受けた(石油危機)。
しかし、これによって電気製品が消費電力を大きく減らすなど省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなった。アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になっていた日本は、更に科学技術大国へとなっていった。
1973年、中東でアラブ諸国とイスラエルとの戦争が起こった。アラブ産油国は石油の輸出を制限し、原油価格は4倍に跳ね上がった。ほぼ100%輸入に頼る日本は、最も深刻な打撃を受けた。
1979年には、イランで王政を倒す革命が起こり、再び原油価格が高騰した。それにもかかわらず、日本の経済は前回ほどの打撃は受けず産業の発展はとまらなかった。
1989年1月7日、昭和天皇が崩御された。60年余に及ぶ、激動の昭和時代は幕を下ろした。皇太子・明仁親王が皇位を継承し、新しい元号は平成と定められた。これは「内外ともに平和が達成される」 という願いが込められた元号だった。
戦後の文化
戦後の日本には、敗戦の痛手を受けながらも、様々な分野で、新たな文化の担い手が登場した。文学では川端康成が日本的な美の探究を続けた。三島由紀夫や石原慎太郎など若い世代も現れ、新しい文学を創造しようとする気概をみせた。
自然科学の分野では、1949年、湯川秀樹が日本人で始めてノーベル賞を受賞し、国民に大きな希望を与えた。その後も多数のノーベル賞受賞者を生み出した。
戦後・昭和期の文化の大きな特徴は、大正以来の文化の大衆化が一層進展したことである。特にラジオやレコードによる歌謡曲の普及は著しく、美空ひばりのように、国民的に親しまれる歌手も登場した。
文学においては、純文学も大衆文学も幅広い読者を獲得する作家が生まれた。松本清張は社会派推理小説、司馬遼太郎は歴史ものを当時の青春群像を通して描き広く読まれた。
GHQに禁止されていた時代劇の映画が作られるようになると「忠臣蔵」などが復活、日本映画が復興した。映画監督の小津安二郎は日本の家族を描写し、黒沢明監督は構想の良さと映像美で国際的に注目された。
高度成長期の後、様々な分野で、日本人の才能が世界的に高い評価を得るようになった。漫画やアニメの先駆者となった手塚治虫、宮崎駿らはその代表的な例である。
日本文化は日本古来の伝統と外来の文化を融合させることによって生まれてきた。そして現代においては日本人の発信する文化は、同時代の外国人にも広く受け入れられ、彼らに大きな影響を与えている。また、世界的な健康ブームの中で「和食」が注目され、2013年にはユネスコ無形文化遺産にも選ばれた。正月や田植えなどの慣行を含む、日本の食材と豊かさが評価された。
第3節 21世紀の世界と日本=冷戦の終結と共産主義の崩壊
米ソの冷戦は、アメリカがベトナムから撤退した後も続いた。ソ連は軍事力を増強して、世界各地の共産主義勢力の援助を強化した。1979年末には、ソ連軍がアフガニスタンへ軍事侵攻した。
アメリカは1981年にレーガン大統領が登場し、ソ連との軍備拡張競争に乗り出した。ソ連はこの競争に耐え切れず、次第に経済力を失っていった。
1985年、ソ連ではゴルバチョフ政権が誕生して、市場経済の導入や情報公開によるソ連社会の再建に取り組んだ。しかしこれにより国内は反って混乱し、東欧でも自由化を要求する動きが広がった。
1989年、ヨーロッパにおける東西対立の象徴であったベルリンの壁が壊され、翌年西ドイツは東ドイツを統合した。ベルリンの壁は、戦後28年に亘ってベルリンの町を東西に分断してきた。
機関銃で監視されていた非情の壁が、東西両市民の手で取り壊された。ヨーロッパでの共産主義陣営の崩壊は突然始まり、あっという間に進み共産主義は終末を迎えた。
ソ連はアメリカとの軍拡競争を断念し、1989年、米ソ首脳は地中海のマルタ島で会談し、長年続いた冷戦の終結を宣言した。
東欧諸国では次々と共産主義政権が崩壊した。ソ連共産党は活動を停止し、1991年ソ連を解体した。ソ連を筆頭とする共産主義体制の崩壊によって、約 70 年に及ぶ共産主義の実験は決着をみた。この体制では、人々に豊かで安定した暮らしを保証出来ず、言論の自由など政治的権利も保障出来ないことが明らかになった。
1990 年 8 月、イラク軍が突然クゥエートに侵攻した。翌年 1 月アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦い、クゥエートから撤退させた(湾岸戦争)。この戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動には参加せず、巨額の戦費の負担と自衛隊による機雷除去などを行ったが、国際社会はそれらの貢献を評価しなかった。このため日本国内では日本の国際貢献のあり方について、深刻な議論が起きた。
《補講》 日本の底力を世界に示した東京オリンピック
東京オリンピックでは、バレーボールと柔道が新たな競技として付け加えられ、20競技163種目にわたり93カ国、5588人の選手が参加しました。日本の選手の活躍をみると、女子バレーボールは宿敵ソ連を破って優勝しました。この勝利は国民に大きな感動を与え、世界に「東洋の魔女」の名声は一挙に広がりました。
また日本はレスリングで金メダル5個、柔道で金メダル3個を獲得しました。男子体操競技では金メダル5個に加え、男子団体で2連覇を成し遂げました。日本のメダル数は金16個、銀5個、銅8個で、アメリカ、ソ連に次いで第3位となり、日本の競技力の高さを世界に示しました。
オリンピックは世界最大のスポーツの祭典です。その開催地である日本は、オリンピックを契機に道路の整備、鉄道、空港などの交通網も整備され、高速道路、新幹線、モノレール、更には国立競技場、駒沢オリンピック公園などが整備され、景観が一新されて美しい町並みが出来上がりました。
また大会運営についても、IOC(国際オリンピック委員会)から完璧なまでのきめの細かさと褒め称えられました。日本人の持つ勤勉さ、組織力によって、「世界の奇跡」と呼ばれる大復興が成し遂げられ、その底力を世界中に知らしめた歴史的出来事でした。
それは日本国民が、「世界の中の日本人」として自国に対する愛や日本人としての誇りを感じる場となりました。東京オリンピックの成功により、日本人は敗戦によって失いかけていた自信と誇りを取り戻したのです。
2020年には2回目のオリンピック・パラリンピックが東京で開催されることになりました。(残念ながら、新コロナ・ウイルスの世界的な蔓延のため、1年間延期することに決定した)。平和で豊かで強靭な国家としての日本の姿を世界に示す場となるでしょう。
《補講》国民と共に歩まれた昭和天皇
立憲君主の学びと国民の安寧を祈り、無私と献身のご生涯
昭和天皇は1901年4月29日、大正天皇の第1子としてお生まれになりました。御名は迪宮裕仁(みちのみやひろひと)、幼少の頃より極めて真面目で誠実なお人柄でした。
昭和天皇は1921年、ヨーロッパを訪問しイギリス国王ジョージ5世と親しく話し合われました。イギリスの政体「立憲君主制」を学ばれたといいます。
「君臨すれども統治せず」という君主のあり方は、武家が政権をとり、朝廷は国家の安寧を祈るという日本の政治形態にも似ていました。
天皇は「もし、自分がよいと思うことは裁可し、嫌なことは裁可しないというならば、これは専制君主と変わらない」と述べています。昭和天皇は、国の命運に関わる重要な場面で、自ら決断されたことがあります。
1936年の二・二六事件の時、天皇は将校たちの武力行為に対して厳しい態度で臨み、叛乱軍とみなして鎮圧を命じました。
1945年8月の終戦も昭和天皇の決断でした。ポツダム宣言を受諾して戦争を止めるか、本土で決戦をするべきか政府内の意見が二つに分かれ、どちらとも決することが出来なくなった時、鈴木貫太郎首相は、天皇にその判断を委ねたのです。
昭和天皇は「私は国民を護りたい」と終戦のご聖断を下されました。
終戦の年の9月、天皇は自ら占領国軍総司令官マッカーサー元帥のもとを訪ねました。元帥は天皇が命乞いや弁解にきた、と思いました。歴史上何処の国の指導者も、戦争に負けると財産を持って亡命するか、自分と家族の安全を求めてくるのが普通だからです。
しかし、天皇の口から出た言葉は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に全責任を持つ者として、私自身を貴方が代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」というものでした。
元帥は「死をも伴うほどの責任、明らかに天皇に帰すべきではない責任までも引き受けようとする、この勇気に満ちた態度に、骨の髄まで揺り動かされた」と『回想録』に記しています。
敗戦後の日本には住む家も食べるものもない焼け野原でした。天皇は全国民を見舞いたいと日本各地を親しく巡幸し復興に励む人々と親しく言葉を交わされました。巡幸は1411個所に上りました。1988年の秋、病床に伏した天皇は、医師に「もうだめか」とお尋ねになりました。医師は「もう長くないのか」という意味だと思いましたが、実はそうではなく、天皇は次の御製を読まれました。
思はざる 病となりぬ 沖縄を たづね果たさむ つとめありしを
この前年、沖縄行幸が決まっていましたが、天皇は重い病に倒れてしまわれたのです。国内最大の地上戦となり、戦後も長くアメリカ軍の占領下にあった沖縄への行幸は、昭和天皇の悲願でした。昭和天皇は自らの最後を悟り「沖縄に行幸するのはもうだめか」とつぶやかれたのでした。
昭和天皇のご生涯は、大日本帝国憲法における統治権の総らん者(すべてを掌握して治める人)として、戦争に苦悩した前半生と日本国憲法における象徴天皇として、国民の幸せと国家の平安を祈る後半生だったと言えるでしょう。そのご生涯は常に国民と共にありました。