サンパウロ日伯援護協会(当時は与儀昭雄会長)の旧年最後の定例役員会が12月17日に開かれ、評議員をつとめながら資金や物資、アパートの寄付などを長年行ってきた内村俊一さん(熊本県出身、85)に感謝状が授与された。
同定例役員会の寄付報告では11月だけでも福祉部・サントス厚生ホーム・さくらホーム・あけぼのホーム・自閉症児療育学級(PIPA)に各500レ、さらにあけぼのホームに米を寄付している。
内村さんが寄付を始めたきっかけは、1994年頃に病弱だった妻ヨシエさんを2週間さくらホームで療養させたことだった。その後、元副会長を務めた故山下忠男さんに頼まれて2010年頃に評議員になった。
はじめは「日本語しかできないから」と固辞していたが、「『ポ語が解らなくてもいい』と懇願されたんです」と当時の様子を振り返る。評議員となった後もあけぼのホーム運営委員や、PIPAの運営委員等も務めあげた。
「色々な事が勉強になりました」と目を細め、「皆、会長さん達の背中をみて素晴らしい病院に育ちました」と今日までの成長ぶりにうなずく。「特に菊地さんには大変お世話になりました。素晴らしい宗教家でもある」と振り返った。
そんな篤志家の内村さんは「ブラジルでも日本でも大変良くしてもらった」と来歴を振り返り、「よい人生だと思います」と微笑む。
内村さんが渡伯したのは1960年。牧場をやろうと思い、ブラジルへ移住しサンパウロ州に入植した。3カ月ほど農業をやったあと、中川重太郎氏の勧めで聖市内で菓子屋を開店して繁盛させた。
70年には「妻に大阪万博をみせてあげたい」と菓子屋を売り、1年間京都に滞在。その間、三菱系のカラー写真紙製造工場でカラー写真現像技術を3カ月間習った。
当時の東山農場社長に紹介状を書いてもらってお世話になったという同工場の社長からは「なんでも好きに使って練習して」と大変よくしてもらったと懐かしむ。
帰伯後は、日本で習得したカラー写真現像技術を活かした写真店のほか、裁判所近くにコピー店を始め大変繁盛させた。「同じ仕事ばかりしてたらダメでしたね」と微笑んだ。どの商売でも「自分だけ儲けようとしない事が大事」だと語る。
「ご恩は必ず返したい。倍返せたらさらに良い」と自身の哲学を語る。世話になった叔父と叔母にも亡くなるまで最低給料を送って恩返ししてきたという。「何より喜ばれると気持ちいいですからね」と微笑みを浮かべながら頷いた。
タグ:サントス サンパウロ サンパウロ日伯援護協会