創業以来、48期48年間、連続黒字決算を誇る不敗の会社を築いたCCM do Brasil社と創業者の中桐廣文。先週の特別寄稿の続編となる本稿では、創業経営者としての姿と同時に、ブラジル中桐家の移住史、人生信条など、農業だけではない日系経営者がいることを伝えたい。
中桐と会社が評価される6つの理由
ブラジル全土の会社の中でも同社が評価され信用される要因として次の6点が挙げられる。創業経営者・中桐廣文が社員とともに築いた功績である。
★部品を含めて8万点に及ぶ農業機器商品を販売するトータルソリューション会社として、全伯農業生産者のあらゆる商品ニーズに応えている。
★全伯27州に築いた1万社を超える販売のネットワークと2500社のアフターサービス店で完璧な販売態勢を築いている。
★生産工場を持たないメーカーとしてコスト削減と経営合理化の徹底。
★ブラジルのあらゆる経済変化に即応できる全天候型の経営態勢を築いている。
★先見性に裏打ちされた情報収集力と無借金経営及び社員の少数精鋭主義
★取引先から評価される「儲けと信用」という経営信条と中桐の人間的魅力
次に事業家としての歩みを振り返ってみよう。
1972年12月に会社DIPAMA社(DISTRIBUIDORA PARANAENSE DE MAQUINAS AGRICOLAS -パラナ州農業機器販売代理店)をパラナ州シアノルテ市に設立、農業用機器と農業用小型トラクターの販売店。
1980年1月9日、パラナ州ロンドリーナ市にて、COMERCIAL TECNICA DE MOTOSSERAS LTDA (称通MOTOLON社)で会社設立、商業販売代理店、チエーンソー、メンテナンス、整備店などを行う。
1982年2月1日、クリチバ市にCENTRO COMERCIAL DE MOTOSSERAS社を設立。1989年7月にロンドリーナ市の(MOTOLON)社を経営管理、
1991年10月にCIA. COMERCIAL DE MAQUINAS CCM LTDA社に社名を変える。
2008年11月21日、CIA COMERCIAL DE MAQUINAS CCM LTDA社はCCM MAQUINAS E MOTORES LTDA社に社名を変え、CCM do Brasil社で現在に至っている。
クリチバ市民としての中桐廣文とは
1947年6月27日生まれで日本国福岡県出身。
1972年9月16日に科子(しなこ)と結婚。
1982年4月20日に日本国籍からブラジル国籍に切り替えた。
現在、パラナ日伯商工会議所の副会頭として大切な貿易相手国である日本との友好と商業の発展のために尽力している。
またブラジル日本文化科学研究所の会頭として、パラナ州の経済発展のために貢献、日本企業とブラジル企業との協力関係を築き、両国中小企業の発展のために率先して活動してきた。
2000年には、ブラジル発見500年記念祝いで、ブラジルの発展に貢献した事業家500名の1人として Empresas e Empresarios 社より表彰状を受賞。
2001年3月29日、クリチバ市が308年誕生創立式に、クリチバ市議会より「クリチバ市賞」を受賞。
2013年6月18日、ブラジリア連邦議会議員グループの会派ブラジル日本連邦議員連盟より表彰状と感謝プレートを受け取る。多年にわたり日本とブラジル両国の友好親善などに尽力し多大な成果を収め、その功績は顕著なものであると認められ表彰された。
2013年6月24日パラナ州議会から日本人移民105周年を祝い、パラナ州日系社会への貢献から州議員の万場一致で表彰される。
2017年 クリチバ名誉市民賞を受賞
2018年 外務大臣賞を受賞
2020年 叙勲 旭日単光章を受賞
両親の教育と商売の原点
1947年に福岡県で父・虎二(とらじ)と母・行子(ゆくこ)の間に3人兄妹の2番目として生まれた。
両親の教育方針で、もの心がついた幼少年期から日本の伝統的な教育方針に沿って育てられた廣文少年は、話し言葉、人との挨拶、相手をおもいやるつき合い方、日常の身だしなみ、日常生活などを、近所や居住地域でも名の知れた模範的な優等生で過ごしている。
これが青年期以降の仕事や生活に繋がる原点になっている。そこには血の通った家庭を大切にする両親の愛情があった。
里心がつく1957年11月に家族でドミニカ移民として、10歳から15歳までの5年間、多感な少年期をこの移住地で過ごした。
その少年期を回顧してみよう。日本の国策による移住者1300人に与えられた配耕地は、大部分が石ころだらけの荒地で、その後、国を相手に訴訟し勝訴したほどだった。それほど農作業には適さない土地だった。
しかし子供の将来のために新天地を求めて海外移住を決断した中桐家は、移住しても子供にひもじい思いをさせてはならないと子供第一の家庭生活を優先させている。両親の教育方針で、貧しくても卑屈にならない。
長男らしく、家長らしく、日本の心を持った、自主独往で挑戦心が旺盛な、未来志向の精神文化を、この期間に「人生の生き方考え方」として自分のものにしている。
そして、一時帰国した1年後の16歳になった1963年4月に、中桐家はブラジルに再移住することになった。最初の移住地はブラジル最南端にあるリオ・グランデ・ド・スル州だった。一家で農作業に従事、翌年に隣のサンタカタリーナ州に移転し米作に精を出した。
さらに農地の適作地を求めて、パラナ州に再度移住した。ちなみにこの南部3州は、経済力とともに、人々の民度と道徳意識が高く、いまでもブラジルの先進地域であり、ヨーロッパ系移民が多く住むブラジルのヨーロッパともいわれる地域だ。
このパラナ生活が中桐廣文と中桐家にとって移住生活にピリオドを打った人生の出発点になった。いわば16歳からの新たな人生行路を築く船出になった土地だった。
父の農作業を助けながら「世のため、人にためになる仕事」を探していた中桐は、自分の農業経験を通して肉体労働者の農作業負担を軽くして、なおかつ生産性向上に繋がる農業機器の販売業にたどり着いた。
これが人生の転機であり節目になった。農機具販売店勤務での営業を通して、農業機器の専門知識を身につけ、お客様が何を求めているのかという市場ニーズも学んだ。同時にお客様とは信頼関係が第一、そのためにはお互いが儲かることが商売繁盛の原点となった。
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18歳から25歳までの8年間は会社を立ち上げるための準備期間でもあったが、親孝行第一の中桐は、同世代とは異なり遊び事もせずに仕事一筋に没頭し、この間も家計を助け続けた生真面目な青年だった。
これ以降もいまも、少年期からブラジルで暮らす中桐廣文にとって、自分の故郷とは生まれ育った時から日本と父と母であり、家族を持った時からもブラジルと家族そのものが故郷となっている。それゆえに中桐の家族愛と人間愛は人並み外れたものがあり、それが人徳にある人間性重視の経営者・中桐廣文を誕生させた。
1972年に科子との結婚と境に会社を立ち上げて、いままで働いた農業と農機具分野の経験を生かし、農業機器販売の経営者として生きる決断をした。大学に行けるような家庭の余裕はなかったが、この間、独学でブラジルの商法、税法、労働法を習得した。
以来、実務経営にも強い経営者といわれる由縁になった出来事だった。
科子(しなこ)夫人と中桐家の家族
創業以来、いまも同社の財務経理担当最高責任者として中桐を支え続けているのが1972年に結婚した科子夫人である。同社のトップブランドである『ナカシ』は中桐科子から名付けたもので、妻に対する「思いやりと長年苦労をかけ続けてきた感謝の気持ち」が込められている。
夫婦愛の強い絆でブラジル中桐家とCCM・ド・ブラジル社を二人三脚で育ててきた。
科子夫人は妻として、母として、そして会社の経営陣として、結婚以来,中桐を渾身的に支え続けてきた肝っ玉母さんである。科子の父は戦前に京都帝国大学を卒業、その後いくつかの大学の先生を務めた。
祖父は三井物産勤務のエリートサラリーマンだった。戦後、北海道、長野県で生活し、科子の名は長野県蓼科湖の科の文字をとって命名した。その後、人生の一大決意をして家族でブラジルに移住し傑物人生を貫いた。
子供は長男が誠治(せいじ)、次男が建二(けんじ)、長女は広美(ひろみ)、次女が真理子(まりこ)、と4人の子供と孫7人に恵まれた。
この中でも長男の誠治は96年にFAE大学を卒業、03年にはPositivo工科大学を卒業後、12年にはアメリカのハーバード大学に留学し卒業。現在同社の開発本部長として活躍しており、対中国取引の責任者として同社発展に貢献している。
現在取扱商品のかなりの部分が中国関連製品で占められており、安くて品質力が良くなっている点からお客様ニーズは高い。誠治は父に代わって数年前から中国を担当してきた。その実績は社内外関係者から評価されている。
同時に誠治は、コーヒー園の丘稜地帯でコーヒー収穫ができる、画期的な大型手袋型タイプの手動式自動収穫機を開発しヒット商品を世に出した。コーヒー農家からは作業効率が大きく向上したとして喜ばれている製品で、事業収益源の1部門に発展させ大きな結果を残している。
次期社長候補の本命として周囲が納得するような数々の実績を積み重ねている。次男の建二は同社のコンピュータ部門を担当し会社のIT化と実務面で貢献している。
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中桐をよく知る地元クリチバの経営者の1人は次のようにその功績を讃えている。
「中桐さんは、勇敢さ、進取の精神で、開拓者としての使命感に支えられ、たくましさと底力を発揮して地域の発展に尽力されている。このことに対し感謝と尊敬の念は計り知れないものがある」。
激動の人生から育まれた「情」「理」「知」
中桐とは『情』と『理』、そして『知』を併せ持つ名経営者である。
『情』は少年時代に経験し、5年間過ごしたドミニカ移民経験と16歳からブラジルに再移住したことが、名経営者・中桐廣文の原点だった。
苦労続きで働き尽くしだった父と母からの愛情を精一杯受けて育ったことが中桐の人格を形成した。若くして人一倍の仕事人生を体験し、その苦労を知り尽くした上で、人生とは何か、をこの年頃に習得している。
同時に人間性重視の経営はこの時期に磨かれた。相手が何を考えているのか、相手が何を望んでいるのか、人を思いやる心を第一にした生き方考え方は74歳になったいまも変わらない。
『理』は経営に私情を持ち込まない、人事の公正化、私心がないこと。経営に関してはその経営合理化による採算性と収益性の徹底、対象事案を客観的に分析していること、全てにわたって世界基準で物事を見て決断する経営を行っていること。
『知』はものの見方や考え方などの社会常識が普遍的であり、ブラジル特有の賄賂や汚職文化に毒されていない正常な知性を持っていることだ。バランスある知的な見識で人との会話を貫いていること。経営に欠かせない総合的な情報分析を基本にした探求心と挑戦心を持った事業家イズムは人一倍旺盛などが列挙でき、さらに抜きんでた「現状分析、先見性、決断力、実行力」が加わっている。
創業48周年を迎えた同社の歴史は、ブラジルが繁栄と衰退を繰り返す激変と激動の歴史の中で、会社が存続していること自体が奇跡的と言われる。しかもこの間、創業以来48年間にわたり黒字決算を継続し、1度も赤字決算になったことがない輝かしい社歴を誇っている。
座右の名は「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」(伝統的な日本精神が込められている)。前回の取材と同様に、地元クリチバはもちろん、全伯のお客様から、全伯の代理店から、世界中の取引先から、社員から、経営者として高い信頼と評価を受けている。
その中桐廣文とは、前垂れ精神で士魂商才を貫いているブラジル日系人であるとともに、大和魂を持った日本人以上の日本人なのである。(文責=カンノエージェンシー代表 菅野英明)
趣味のクルーザーに込められた父との約束
クリチバから大西洋の海に向かって100キロ、ブラジル第2の貿易港であるパラナグアに沿って代表的なビーチと隣接するカイオーバヨットクラブがある。日系人の会員は中桐1人である。
ここに中桐が所有する62フィートの大型クルーザー『第7虎丸』が停泊している。前回の取材では60フィートで第6虎丸だった。船体も一回り大きくなっている。
船名になぜ虎の文字が入っているのか。父の名が「虎二」だからだ。父は生前に「経営者で成功したお前の姿を目の前にしてから死にたい」と話したことである。中桐はこれを支えに妻の科子とともに事業発展に向けて邁進した。
その結果、小型船だった第1虎丸から数えて現在の船が7代目。会社の成長と並行するように船も次第に大型化していった。そして光り輝く大西洋の船上から「親父との約束を果たしている証明が船になった。この船に乗っているといつも親父が傍にいるようだ」と誇らしげに顔が輝いた。