「約30年ぶり。昔よりきれいですね」――2月26日、二宮正人氏に誘われて、サンパウロ市イジエノポリス区にある旧在サンパウロ総領事公邸(Rua PIAUI, 874 HIGIENOPOLIS)を約30年ぶりに訪問した元総領事館顧問弁護士の大原毅氏は、感慨深げにそうコメントした。この建物は現在、文化施設「インスチツト・アルチウム・デ・クルツーラ」(INSTITUTO ARTIUM DE CULTURA、以下IACと略)に生まれ変わった。本来は昨年から開館する予定だったが、パンデミックにより延期され、今も正式な日程は決まっていない。
二宮氏は当日、妻ソニア氏と共に訪問。旧知の仲だったIACのカルロス・カヴァウカンチ会長から「総領事公邸時代の歴史を教えてほしい」と連絡があり、公邸として使われていた時代を最も良く知る人物として大原氏を誘ったという。
大原氏は、総領事館の顧問弁護士を1964年から2004年まで40年間も務めた。最初はここで公式行事やパーティが開催されていたが、手狭になり30年ほど前にモルンビー区に新築移転し、使われなくなった。その後、「屋根や床、階段も落ちて廃墟のようになっていた」という。
同公邸での一番の思い出は、1970年3月11日に起きた大口信夫総領事誘拐事件だ。公邸のすぐ近くで誘拐され、左派テロ団は政治犯5人の解放を要求し、ブラジル政府が特別処置でその要求を呑んだことから、4日後に解放された。
大原氏は「その間、公邸に特別対策室を設置して、僕らは24時間体制で対応しました。いつテロ団から連絡があるか分かりませんから。でもいたずら電話が多くて困りました。その都度、警察と相談して対応しました」と建物を見回しながら懐かしそうに語った。
公邸がモルンビーに移転後、ここが廃墟になったのは「歴史的遺産指定」を受けた関係だという。この指定があると建物を解体改変ができないので、07年にようやく購入者が現れた。その間、周りは高層アパート群が林立していた。
二宮氏は、同公邸の歴史を説明。1940年に日本政府が購入したが、すぐに大戦が始まって閉鎖。国交回復後、1951年12月に戦後初の総領事として石黒四郎氏が着任して使用が始まった。1958年の三笠宮ご夫妻来伯に始まり、現在の上皇陛下、天皇陛下らを始め、日本からの要人が立ち寄った可能性があるので、当時の外交資料や文献を調べた方が良いと提言した。
さらに自身の著作『絆 皇室とブラジル』(二宮正人/二宮ソニア共著)を同館に寄贈した。
カヴァウカンチ会長は文化施設として開館するにあたり、建物の歴史の展示をする準備をしており、その一環として二宮氏に声をかけたという。「とても内容の濃い話が聞けた。日系芸術家の作品展などもいずれ企画してみたい」と感心した様子。当日はサンパウロ州工業連盟(FIESP)の国際担当理事トマス・ザナット氏、ホンダ・ヘルシオ弁護士ら同館関係者も立ち会った。
□大耳小耳□
記者が大原氏に「邦字紙記者の大先輩から昔、『公邸の守衛の目を盗んで、夜な夜な壁をよじ登って公邸に忍び込み、総領事らとよく夜通し麻雀をしていた』という話を聞いたことがありますが、本当ですか?」と尋ねると、懐かしそうな表情を浮かべた。「そうそう、あの頃はしょっちゅう朝までマージャンをやっていたそうですよ。この広間だったはずです」と展示スペースになるはずのサロンを指さした。「古き良きコロニアの思い出」がこの建物には詰まっているようだ。