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特別寄稿=追悼文 大浦文雄さん=「レンガですか?」に集約された人生=聖市在住  大浦玄(編集部注=『子供移民・大浦文雄』著者)

自宅の書斎でお気に入りのソファーに座る大浦文雄さん

 大浦文雄さんは、1924年10月21日香川県坂出市に長男として生まれ、4歳半の1929年3月に親、叔父、兄弟とともに『備後丸』に乗り5人の構成家族でブラジルに移住した。
 サンパウロ州パウリスタ線サンタエウドーシア耕地に入耕。1930年にスザノ市に入り、1933年にモジ・ダス・クルーゼス郡コクエーラへ転耕。1935年スザノ郡ビラ・イペランジア(福博植民地)に入植した。
 福博青年会会長、福博村会会長、『憩の園』を経営する救済会常任理事、『こどものその』地方理事、ブラジル日本文化協会理事、汎スザノ文化体育協会会長を歴任。生業は養鶏。1994年から薬用ビワの葉栽培を始め、ハブ茶を取るハブソウ栽培など薬草園を経営していた。
 2020年12月7日午後4時、スザノ市の病院で死去。サソリにかまれ毒が腎臓に回り入院、新型コロナウイルスに院内感染して急死した。享年96歳。

「レンガですか?」と言うあいさつ

 大浦さんは絶対に日常的な「今日は」とか「同じ」あいさつを繰り返さない人だった。理由は分からないが、大浦さんが詩の師匠として敬愛し、師事を仰いだ横田恭平がそうであったと言う。
 大浦さんが青年時代、家を建てるためにレンガを買いに工場へ行った時、横田が詩人であったとはまだ知らずに偶然、横田が「レンガですか?」と声をかけてきた。
 以後、詩人としての横田との付き合いが始まっても、同じあいさつは絶対にしない人だった。一瞬一瞬を大切に、創造的に生きることを旨とした詩人の大浦さんは、日常的なあいさつなど交わすものではない、と考えていたようだ。
 それにしても、寂聴(じゃくちょう)すると、「レンガですか?」と言う横田のあいさつが今、80年の時を越えて聞こえてくるようだ。
 二人の天才詩人が出会ったときに初めて交わしたあいさつ。鍬(くわ)を持って畑を耕していた横田が、白い雲が浮かぶブラジルの青空の下で汗をぬぐいながら、初めて見る青年大浦に「家を建てるためにレンガを買いに来たのですか」と声をかけたのである。
 レンガが赤く映える。慎重に言葉を選んで発したであろう横田の土臭い声に、適度な緊張感も伝わる。
 「レンガですか?」に、96歳でその生涯を閉じた詩人・大浦さんの人生が象徴、集約されているように思える。
 大浦さんは青年の時、横田との共著詩集『スザノ』の序詩として次の一文を掲載した。
「一句とっても 血のにじむような 詩が書きたい (獣の如くおもう日がある)」
「幾度読んでも 唯匂うような 詩が書きたい (少年の如くおもう日がある)」
 生きる事へのねがいさながらに――。
 横田と並ぶコロニア詩人双璧の一方の雄である古野菊生は、この詩を見て「詩とはもっと別な、例えば昆虫の触覚で捉えるような、柔軟なものだと思うのです」と批評した。「こんなものは詩ではない」と言われたも同然で、25歳の大浦さんは筆を折って、10年ほど詩作を止めてしまった。
 早稲田大学文科卒の古野は南米銀行に勤め、パウリスタ文学賞選考委員を務めるなど文学活動も行った。その後、日本へ帰国し、京都外国語大学の客員教授となった。
 大浦さんが訪日した時は一緒に食事をしたという。古野は、食事の最中に大浦さんの口から出る詩やエピソードを紙ナプキンにメモし、そっとブレザーのポケットに忍ばせていた。大学の授業の教材にでもしていたのだろうか。
 古野は決して幸せそうな晩年を送ってはおらず、そんな古野を、大浦さんは気の毒に思っていた。東京駅で待ち合わせた時、古野は道を隔てた向こう側の女神の銅像の前に立ち、赤いネッカチーフを首に巻き、イタリア製のジャケットを着てステッキを突いていたという。
 その昔、横田と大浦さんが連れ立って南銀の古野を訪ねた時、横田は古野に向って「宮仕えは大変ですなぁ」と一太刀浴びせたという。大浦さんは、横田の野性味のある神経と、古野のダンディーで繊細な神経両方を合わせ持っていた。

大浦さんの逆鱗

 大浦さんには神経質かつ短気なところがあり、筆者はその逆鱗(げきりん)に触れたことが2度ほどある。
 一度は言葉が心理に与える影響を説明するのに、「コーヒーをし瓶で飲むと味がまずくなる」と書き、大浦さんが原稿を投げつける勢いで怒り、数カ月、不機嫌な顔をされたことがある。
 血のにじむような努力をして一句を探す大浦さんには、この種の下劣で無神経な表現が耐えられないらしい。「黄金の器で飲むと、英国王室御用達のコーヒーの味がする」とでも肯定的に書くと良かった…。
 もう一度は炎天下の中でバス停に3時間近く待たせたことがあった。「おれが若かったらぶんなぐっているところだ」と体をぶるぶる震わせながら怒っていた。この時は、待ち合わせ場所をお互いに正確に確認し合わなかったことが原因であった。

けんか

 大浦さんは東京駅で何人かの要人、友人と待ち合わせし、うまく会えずに何度も大げんかしている。一人は『ドナ・マルガリーダ・渡辺』の編著者、前山隆教授。取っ組み合いのけんかをした後、「飲みなおそう」と言って、事なきを得た。
 もう一人は筆者の先輩にも当たる元・パウリスタ新聞記者の太田恒夫さん。日本に帰国してヨーロッパ三菱電機社長にまで上り詰めた成功者。
 自分にインテリ・コンプレックスがあると言っていた大浦さんにとっては最高の飲み仲間、話し相手であった。やはり東京駅で待ち合わせて会えず、暫くして道で会い、太田さんに「だからコロニアの奴らは」との一言が大浦さんの心にぐさりと突き刺さった。
 以後、会うことも口を利くこともなくなり、絶交した。太田さんは「日本は戦争で負けたが、今度は経済で仕返ししてやる」と言って商社で活躍した熱血漢である。
 サンパウロ人文科学研究所在日グループ代表を務めて、現在90歳のはずだが、御健在であろうか。

社会派詩人

福博小学校第2期卒業生(前列右大浦さん)と本人

 大浦さんは「自分は社会派詩人だ」とよく言っていた。社会派とは、左翼傾向の思想を持つ人たちのことである。ルーラ大統領の教育改革を高く評価していた。
 夕方、大浦さんの住むスザノ市福博村にある市立小学校の周りに、立錐の余地もなくスクールバスが数十台並んでいるのを見て、「この生徒たちの中から将来、一人でも偉大な人物が出たら、ルーラの教育政策は成功だ」とよく言っていた。
 大浦さんは父・要(かなめ)から「共産主義者になったらコロニアから村八分になるぞ」と厳しく注意されていた。
 また、「詩は生活と共にあった」とよく言っていた。その意味がよく分からなかったので、何度か質問したが、要領の得た答えはなかった。
 筆者と大浦さんとの付き合いは今年でちょうど10年になるが、数年前から、答えられない理由は大浦さんの言うコンプレックスにあると気が付いた。
 大浦さんは「インテリ・コンプレックス」があるとよく自分で言っていた。言うところの「学歴コンプレックス」とはちょっと違うように思う。

書斎に飾られた展示物を熱心に説明する大浦さん

 数百の詩を一字一句間違うことなく暗記し、一千冊は優に超える蔵書を持ち、書斎を造って独学した大浦さんは、まごうかたなきインテリである。
 大浦さんとの付き合いが始まってから、毎年、7人の忘年会を行うようになった。早稲田OBが3人、信州大学卒業が1人、無学歴が大浦さんともう1人、それに筆者である。このうち、文科系インテリは2人で、大浦さんが死去する前にこの2人は鬼籍に入った。
 この文科系2人が、無神論、無宗教であった。大浦さんはこの2人をまねて、無神論者、唯物論者を装っていた。大浦さんの家には仏壇もあり、勲章を仏壇に供えていたことからも分かるように宗教心は決して薄い方ではなかった。
 大浦さんは会館の詩を書いて、会館を建てた。「三十の日のうた」を書いて30代の人生計画を立て、30代を乗り切った。「第一回村勢調査にあたって」という詩を書いて、見事に福博村の調査を実現した。
 念じたり、何度も言葉に出すことによって、物事が実現していくということがある。科学的な論拠はないが、体験的、統計的にそういう事実があるということは経済的成功者の多くが指摘していることである。
 仏教詩人の坂村真民(さかむらしんみん)は「念ずれば花開く」と言っているが、大浦さんの言う「生活は詩とともにあった」というのは詩を書くことによって、念じ、物事が実現していくということではないか、と筆者は問いただしたことがある。
 大浦さんは「坂村の作品は詩というよりも人生訓と言うべきものだ」と言って、その時は首を縦に振らなかった。
 しかし、2017年のサンパウロ人文科学研究所の『コロニア今昔物語』と題する講演で大浦さんは「念ずれば花開く」と何度か言っていたので、念という力が存在することを認めたと思う。

渡辺マルガリーダさん

 大浦さんは渡辺マルガリーダさんに「救済会(憩の園)」を頼みます」と言われ、その遺言を最後まで心に留め実行して逝った。マルガリーダさんの右腕として忠実に仕えた大浦さんは、救済会を援協(サンパウロ日伯援護協会)傘下に置く際には、理事会の上に評議会を設置するように提言した。
 二世三世が会長になる時代に入り、憩の園の運営を援協に任せた後、切り売りされてはたまらないと心配したからだ。
 大浦さんは特養ホーム建設のため1989年から1990年にかけてコロニアの29日系団体を回り、計1240戸を一軒一軒歩いて寄付を募った。マルガリーダさんは「1クルゼイロくれた人にも、100クルゼイロ寄付してくれた人と同じように感謝しなければなりません」と大浦さんに言った。
 募金の時には人の家に上がって昼食を食べることはせずに、木の木陰に坐って持参した弁当を食べた。そういう所を村の誰かが必ず見ていて、「大浦さんは寄付するに値する」と言って、寄付してくれた。
 日本では稲盛和夫が即決で京セラとして一千万円、稲盛個人として百万円出してくれた。
 青木建設では会社として百万、女子社員の一人が社員から募った百万円、合わせて二百万円を贈られた。女子社員と言うのはブルーツリーホテルの現会長、青木智栄子さんではなかったかという気がする。
 大浦さんはマルガリーダさんと宗教について深く話すことはなかったようだ。何かの時に「聖書は日本語で読んだ方が深く理解できます」と言うのを聞いた程度だった。

インテリな大浦さんだが、そのゴツゴツした手からは、土を相手に仕事をしていることが伺われる

最後に!

 前述の飲み会で2人の唯物論者に「神を信じないのも自由だ」と言われ、論破されっぱなしだったので、2人が亡くなった後の忘年会で「お開き」1分前に、筆者がユーチューブで見た大宇宙地図の話をしたことがある。
 直径10万光年の銀河系宇宙を一点で描いた銀河宇宙群の位置を示したマップ(地図)でその「中心に地球がある」。さすがに大浦さんも他の3人も瞠目した。ユーチューブの聖書学講師は天地創造の「第一原因」による「人間中心主義」が証明されたと言っていた。
 この追悼文を書いて良かったと思う。大浦さんの魂の供養になったと思う。供養とは供えて養うという意味の仏教用語だが、自分の中では、大浦さんの魂が養われ、天の高みに引き上げられたと思う。
 面倒見の良い大浦のことだから、先に逝った2人の唯物論者にも手を差し伸べて、天へ引き上げたことだろう。

蛇足!

 大浦さんとは2011年以来の深い付き合いだが、その時から2年後にSesc(社会商業サービス)Belenzinhoでユダヤ人写真家セバスチヨン・サルガードの写真展『GENESIS(創世記)』が開かれた。
 金婚式2000年7月に大浦さんの長女・和子さんが「お父さん、お母さん、おかげさまで幸せな子供時代を過ごすことができました。ありがとう」と祝辞を書いて贈ったサルガードの写真集『流浪の子供たちの写真集』を見ていたので、サルガードの名は知っていた。写真展も写真集も白黒である。大浦さんがこの写真展をぜひ見に行けというので、行ってみて大変なショックを受けた。
 光学的には白黒こそが完全な光で、色彩は光が分裂して現れる。
 ゲーテの「色彩論」を口にすると、大浦さんは即座に反応し、青年時代にゲーテを読み、実験までしたと言い、舌を巻いた。稲のDNAを全文解読した世界的権威の村上和雄は「人を幸せにする魂と遺伝子の法則」という本を書いている。魂の存在を認めるか、無視するかで、人生は大きく変わると言う。
 気づきも多くなり、不思議なことも起きてくる。