文字について
日本では「文(文字)は人なり」という表現があるとのことですが、私(モハマド)はどの様な字を書くかが人々の性格や考え方に影響するとは考えません。字や芸術は文化と関わりがあると思いますが、考え方や哲学に関係はないと思います。
アラビア語は文字もありますが、音声言語であって、書く言語ではありません。最近は書くことも少しは重視されていますし、昔はもっときれいに書かなければいけないという考えがありましたが、どちらかと言えば話せるほうが重要です。
特にイスラム教の広まる前のアラブでは、書ける人は少数でした。日本人は書く文字に力を入れるようですが、アラブ人は発音に力を入れます。アラビア語は話すのが重要です。
アラビア語は〝詩〟の言語です。2000年ほど前には、詩の市場がありました。そこで詩が売買されていました。人々は自分の詩を見せて売り買いしていました。
昔のアラブでは、全てのアルファベットを上手に発音できない人がいました。そういう人は集団で重要な地位には就けませんでした。発音が良ければ良いほど、高い地位に就けました。
昔、もとは大家族や富がなかった人たちでも、上手に話せただけで王様になれた人がいました。発音と話し方の良さで王様になれました。しゃべる文化が私たちの血に流れています。
口頭試験はアラブ人、筆記試験はアジア人
私立学校でポルトガル語を勉強し、ブラジルの試験Celpe-Bras(外国人のためのポルトガル語能力証明書)を受けたことがあります。
その学校には様々な民族がいて、日本人も中国人も韓国人もペルー人もいました。多くの場合、大学に入るために勉強しています。
そこの先生は、様々な生徒に教えてきた経験から、「アラブ人はとても話すのは上手。でも読み書きは弱い。日本人や中国人は書くのはとても上手で、文法などもよくできる。でも、話さない」と、頭を抱えていました。
先生はいつも東アジアの人々は話してくれないと悩んでいました。東アジア人は口頭試験に落ちるが、筆記試験は合格。アラブ人はその反対です。これは文化の違いだと思います。
日本文化では書くことで性格が判断されるほど書くのが重要です。我々は、どのような発音と話し方かによって測られます。だからアラブ人はつい、自分が本当に実行していることよりしゃべってしまいます。
ブラジル人が覚えたがるアラビア語
ブラジル人はアラビア語の悪口に興味があります。でも、教えません。リスクがあるからです。ブラジルではあまり悪口に深い意味がなく、男女とも日常的に口をついて出てきます。
それは文化の一部で、悪口を言っても大した反応がないのが普通です。アラブではもしある人が別の人に悪口を言えば、必ず怒りの反応があります。
私は生徒の一人に悪口を教えたことがありました。それは馬鹿という意味の言葉でした。ある時、彼はその言葉をアラブ人に言いました。そうしたら、そのアラブ人は烈火のごとく怒り出しました。その後、私も仲裁に入り、一件落着しましたが。
他にも、セントロ地区のシャワルマ(アラブ風サンドイッチ)の店で、ポルトガル語でフィーリョ・ダ・プッタ(売り女の子ども)を意味するアラビア語を、ブラジル人の店員が覚えました。
ある時、レバノン人が注文して、店員は手早く作ったけれどおいしくありませんでした。それで、レバノン人がこんなものは食べたくないと言うと、その店員はアラビア語でフィーリョ・ダ・プッタと言い返しました。
ポルトガル語では憂さ晴らし程度に使われるこの言葉ですが、それを聞いたレバノン人は店員を捕まえて殴り出しました。最終的に2人は引き離されましたが。
アラブでは人に悪口を言って平和にすむことはありません。それと、アラブ人は女性の前で人をけなす悪口は言いません。(つづく、大浦智子さん寄稿)