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中島宏著『クリスト・レイ』第142話

 そのときから、私は今の父と母に預けられるということになって、それ以降はずっと、そこで育てられることになったというわけ。牛島あきさんは佐賀県のどこかの結核療養所へ送られたらしいけど、結局、そこから退院することなく、一年後に亡くなってしまったらしいわ。
 牛島さんは、亡くなる半年ほど前に、父を呼んで私のことをお願いしますと、養子縁組を頼んだらしいわ。父は、担当の医者に彼女の実際の容態と回復の可能性を聞いたところ、まず、見込みはほとんどないという返事だったから、父も母も牛島さんの願いを聞き入れて、私を養女にすることに決めたということなの。
 そんなことを、父は淡々と、しかし、温かみのある話し方で説明してくれ、これがお前の出生の秘密だ、今まで話さなかったことを許してくれ、今だったら、お前もこのことをよく理解してくれると思う、と言ってくれたわ。
 確かに、私はそのとき、かなりのショックを受けたことは間違いないけど、でも一方で、何か冷めたような気持ちが心の中を通り抜けていくような感じも持ったわね。
 それはね、何と言ったらいいか簡単には説明できないけど、ああ、今の父と母に育てられて本当に良かったという、そういう感謝の気持ちが大きく膨らんで来たのね。
 で、そのとき、父と母に、私を今日まで一生懸命育ててくれて、本当にありがとう。心から感謝します、って言った途端、私は思いがけずワーワー泣き出しちゃったの。自分でもびっくりするくらいの声でね。そして、しばらくは泣き止むことができなかった。何だかそれは、それまで抑えられていたものが、一度に開放されるようにしてほとばしり出たという感じだったわね。
 父と母も、これにはちょっとびっくりしたようで、慌てて私をなだめようとしたわ。
 そんな、わしらに感謝するなどと、水臭いことを言うものではない。わしらはアヤを間違いなく本当の娘だと思っているから、そんな他人行儀のようなことを言われたら、わしらの立つ瀬はない。いや、そういうことならお前は、わしらにとっては過ぎるほどの娘に育ってくれたから、こちらの方こそお前にお礼を言わなければなるまい。
 そんなことを言いながらも、父の目には涙が光っていたわ。母はおろおろしながらも感激して、私の肩を抱きながら、一緒に泣いてくれたわ。私は号泣しながらも、その溢れ出る涙が何とも心地よいものだということを、そのとき、しきりに感じていたわね。
 そんなことがあってから、私の養女の問題は、お互いに一切、口にしなくなったけど、それはそれで一応、終止符が打たれたという感じで、そこには何のわだかまりも残らなかったわ。
 ところがね、人間というのは不思議なものね。そのことはすっかり解決されたはずだったんだけど、私の心の中に、そのことが引っかかるようにして残っていったの。どういうことかというと、私の産みの母である、牛島あきさんのことが、心の隅に小さな形だけど残って、それが中々消えないということになっていったわけね。
 父と母に対しては、すまないという気持ちが強くある一方で、牛島さんの人生に対する同情というか、憐憫のような感情が時折、ふっと膨れ上がるようにして私の心の中で大きくなっていったわ。
 別に、それを思うことが悪いことでもないし、間違っているとも思わないけど、それでも、それを父や母に気づかれることだけは絶対してはいけないという気持ちが、同じようにあったのね。
 そうなるとそれは、父と母に対して隠し事をすることになり、それはそれで間違っていることになるから、その辺りが矛盾ということになり、その意味でもこの時期は、私にとってかなり苦しいものだったわ。