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特別寄稿=白い黄金を求めて=ブラジル綿花の歴史と日本人綿作者=櫻井章生(さくらいあきふ)=《1》

 はじめに

 初期の日本人移住者はコーヒー園労働者としてはるばる日本よりやってきた。ところが期待していたような稼ぎは得られず、生活は楽にならない。
 そこでいろいろ考えて何とか現金収入を得ることを考えたり、コーヒー農場の片隅に自家消費用の食糧を生産したりして、家計の足しにすることを考えた。
 香山六郎伝に書かれているように、香山はコーヒーを植えるかたわら、食糧として フェイジョンとか玉蜀黍を植え、家族で棉摘みに出かけなにがしかの現金収入を得た。
 棉については、雨期が始める10月に種をまき、翌年4月には収穫して現金に替えられる。
 あるいは又仲買人を通じて綿花商と先物商売をして前借金を得ることもできた。
 香山六郎が綿を植えたのは1915年頃で、ほぼ同じ頃平野運平の平野植民地でもコーヒーが主体であるが、換金が早く前借ができる綿を植えていた。
 1930年代はコーヒーが衰退していく中で日本人移住者の綿花栽培が増大、サンパウロ州の西南のバストス付近では一面綿花畑の時代があった。
 このように綿花は日本人移住者にとって早くから経済活動の原動力となり、その生活の支えとなっていた。ほぼ同様のことがパラナー州でも見られた。
 その後サンパウロ州の綿作は州の北西部へ移動していったが、この地方の綿作もやがて衰退し、ブラジルの綿栽培は中西部と北東伯の一部の高原地帯で大規模綿花農場経営として発展を遂げていくことになった。
 日本人移住者の多くは綿花栽培に従事してきたが、南ブラジルの綿作の衰退により 、その姿は消えていった。
 しかし白い黄金を求める日本人とその子孫で大規模な機械化綿花栽培に挑戦し成功する人達をみて、実に頼もしい思いがする。
 忘れてならないのは、綿花に生活をかけて同じ農場で借地又は自作農で永年働いても経済が好転せず、負債を抱えたまま綿作を放棄、農場を去った人々が数多くいたという事実である。
 その人たちはどこへ行ったのか記録がないが、その人たちの苦悩は想像もできない。
 日本人移住者とその子孫の綿花栽培の流れについて前から集めておいた資料と種々の情報をもとに、ブラジルの綿花の歴史の一部として記録しておくことが綿花に関係した仕事に携わった者としての義務と感じ、拙文を纏めることにした。

◎世界の綿花栽培の歴史

 日本に於ける綿花の起源は桓武天皇の時代、延暦18年(西暦799年)、崑崙人(インドネシア系人)が三河に漂着し自分は天竺人だと称し、持参の壺の中に入れて持っていたのが綿の種子であった。これを近畿・四国・九州など、西日本の各地に頒布したのが日本の綿花の始まりだとされている。
 綿花は初期においては生産量が少なく、中入れ綿として利用されていたようで、綿糸や織物として使用されたのは室町時代から徳川時代初期にかけてであった。それが広く用いられるようになったのは徳川中期以降のことである。
 幕府並びに各藩も、綿と綿実から取れる油を得るため綿花の栽培を奨励した。
 日本の生活文化における衣料の材料はもともと麻等の繊維からつくられたものが主体であったが、綿の繊維からつくられる衣料は、その特性である通気性と肌触りが良く、吸水性と吸湿性に優れ、水に濡れることで強度が増し洗濯に強くなるという特性がある。綿花が温帯から熱帯にかけて広い地域での栽培が出来るため、植物繊維からできる衣料として最も多く利用されている。
 世界歴史において綿花が人間の生活に使用されたのは、アラビアからインドにかけて4千年前頃だといわれる。起源前の記録ではインドは綿花栽培の中心であり、エジプト・スーダン・小アジアでも綿花を生活必需品として使用していた。またペルーのインカでは紀元前 4500年頃綿が使用されていた。

◎ブラジルの綿花・北東伯綿花

 ブラジルの綿花は16世紀以前から北東伯において使用されていた。ポルトガル人がこの地へ来た頃には、原住民は既に綿花を知っており、手繰りで得た繊維で糸をつくり布を編んでいた。これが後に北東伯における伝統の手編みのレースとハンモックの始まりである。
 現在でもマット・グロッソ州農村地帯などで庭先で綿を植え手繰りで繊維を撚り、ハンモックを作っていることが見られる。
 北東伯から始まったブラジルの綿花栽培は19世紀から20世紀にかけて発展拡大し、北東伯の雇用と所得の増大をもたらした。
 1950年代の北東伯の農業耕作総面積3300万ヘクタールの約10%相当の320万ヘクタールが綿花栽培に充てられた。
 特にパライーバ州の第二の州都カンピーナグランデは綿花の中心地として栄え、20世紀の初期においてはイギリスの綿花取引の聖地であるリバープールに次ぐ世界的な綿花取引の中心地となるに至った。
 北東伯の気候は内陸の大半において降雨量が年間500から800ミリの間と少なく、熱帯圏に位置し年中高温で極めて険しい気候にある。北東伯で栽培される綿花はmocóと呼称される品種で、その根は土中に深く伸びる特性を持ち、旱魃に耐え少ない降雨でも生育する。
 mocó種はその他の中南伯諸州で栽培される一年生の綿種と異なり、多年生で7~8メートルまで達する灌木状の綿木であり、8年間程生産可能である。
 多年生綿花の特徴としてその葉は、南伯の一年生綿花の葉が丸みをおびているのに比し、細長く先が尖った葉である。その綿実は繰綿で繊維をとった後、リンターが残らず、つるつるの種子である。
 mocó種の綿花は摘み取ったあと牧牛を畑に入れ残ったボール殻と葉を牧牛の餌に利用し、残った灌木状の綿木から年あけて再び芽が出てくる。
 栽培コストは低く施肥は行われず、生産性は南伯綿に比して60~70%低かった。
 1963年の北伯綿の植付面積240万7302ヘクタール、その実綿生産高はは83万2743トンで、ヘクタール当たりの実綿生産高は346キロ、精綿(原綿)生産は歩留30%として104キロの計算となる。
 同時期のサンパウロ、パラナー、ミナス、ゴイアス、マット・グロッソの中南部諸州植付面積114万6444ヘクタールの実綿生産高112万4152トン、ヘクタール当たり実綿生産高は981キロ、精綿生産は歩留まり30%として294キロとなった。
 mocó種で生産される綿花は繊維長が32~34ミリのものをセルトン、34ミリのものをセリドーと呼称した。セリドー綿は主としてリオ・グランデ・ド・ノルテ州で生産された。
 mocó種の綿花の繊維はなめらかで強力があり、細く長い極上の繊維である。
 バイア州以北の諸州の沿岸部等の降水量の多いところでは、一年生の綿種が栽培されたが量的には少なかった。この一年生綿種はmatta(マッタ種)と呼ばれ短繊維の綿花であったが、これはその後、南伯の米綿改良種に取換えられた。
 北東伯の綿作は16世紀の初めにバイアとセアラ州に始まり、17世紀の初期に於いて綿花は繊維の生産以外に綿実は食糧油として、収穫後のボール殻と葉は牧牛の飼料として利用され、北東伯全体に小規模な農家による綿作が拡大した。
 18世紀の後半より始まった工業の発展は、米国で発明されたソージン繰綿機(sawgin)がブラジルに導入されたことも原動力となり、綿花栽培と繰綿工場の活動が活発となった。特にマラニョン州では1830年代に欧州、主として英国へ綿花を輸出するに至った。綿作の発展はマラニョン州からピアウイー州、セアラ―州その他の北東伯諸州へと拡大していった。
 綿花から繊維と綿実を分離する作業は従来、時間のかかる大変な重労働であった。原始的には手で繊維と綿実を分離することから、2本の木製ローラーをハンドル、又はクランクをつかって回転し、綿繊維を綿実からしぼりとり、繊維は2本のローラーの間から出てくるが、綿実はローラーの間を通ることが出来ず、そのまま残って下に落ちる仕掛けの器具を永い間使っていた。
 1792年に米国のイーライ・ホイットニーが効果的な繰綿機を発明した。これは英語で cottonginと名づけられた。この機械はフックのついた木製のドラムを回転させ、金網越しに綿の繊維をドラムが巻き取る方式であった。1796年にはこの機械用に鋸のついた鋼板(saw)が発明された。この繰綿機ははじめは鍛冶屋または町工場における手製のものであったが、その後改良が重ねられ、1830年頃からソージン専門の工場が出現した。
 能率的な繰綿機の出現は米国の綿花栽培は急速に伸び、大きな経済力を生む原動力となった。
 北東伯の産業である綿花・牧畜・玉蜀黍フェイジョン等の主食農業の三本立ての農牧活動は1980年代まで続き、多年生mocó種の綿花が栽培されたが、その後諸々の状況変化により東北伯のmocó種の綿花栽培は衰退していった。
 北東伯における小中農家による綿作は、生産性は低いものの、繊維工業と食糧油の原料の供給として北東伯の経済活動と雇用に大きく貢献するに至った。
 1960年から1970年にかけて、全ブラジルの綿花生産の40%を生産した北東伯の綿作はその社会経済上の貢献度からオウロ・ブランコ(白い黄金)と称されるに至った。
 当時の北東伯の綿花と人々の日常生活がいかに密接であったかは、セルトンの民謡歌手で人々に愛されたルイス・ゴンザーガが歌った ALGODÃOという素朴で陽気な歌があるので以下に紹介する。
ALGODÃO
Bate a enchada no chão
Limpa pé de algodão
Pois pra vencer a batalha
É preciso ser forte, robusto, ou valente Ou nascer no sertão
Tem que suar muito praganhar o pão
Que a coisa lá, nê brinquedo não
Mas quando chega o tempo rico da colheita
Trabalhador vendo a fortuna se deleita
Chama a familia e sai, pelo roçado vai
Cantando alegre ai, ai, ai, ai, ai, ai
Sertanejo do norte
Vamos plantar algodão Ouro branco que faz nosso povo feliz
Que tanto enriquece o pais
Um produto do nosso sertão
 日本語に拙訳してみると …….
荒れた畑に鍬を打ち込み綿の畑の草むしり
打ち勝つために
強くたくましく勇ましくセルトン生まれの我々は汗を流してパンを得よう
畑仕事は楽じゃない
棉摘み仕事が始まるときは
みんなで楽しく摘み取ろう
家族みんなで畑へ行って歌を歌ってアイアイアイアイアイ
われらセルトン人
棉を植えよう
白い黄金われらの幸せ
白い黄金祖国を富ませ
我がセルトンの輝く黄金

 然しながら北東伯の綿作は1980年代から衰退がはじまった。その原因は北東伯の農耕地の75%が乾燥地帯で降雨が少ないうえに不規則で、mocó種の綿花は旱魃に強いとはいえ、生産性が低いこと、綿花の収穫が手摘みで麻袋に詰めプラスチック等の紐で縛ってジン工場へ搬入されるため、麻屑プラスチック糸等の夾雑物の混入が多く、紡績の工程において問題が発生すること、北東伯の紡績工場による品質が安定し輸入税が免除されて割安の輸入綿花の使用が増大したこと、都市部の工業化に伴い多くの綿作農民が農地を離れ工場労働者として都市へ移動したこと等である。
(つづく)