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特別寄稿=白い黄金を求めて=ブラジル綿花の歴史と日本人綿作者=櫻井章生(さくらいあきふ)=《3》

サンパウロ州の1980年代、棉の手摘み風景

 当時サンパウロ州奥地に入植した日本人移住者で文学を愛好し詩を作った人達があった。その詩の題材に綿花にかんするものが多かった。『日系コロニア文芸』別巻(大浦文雄・ルネ田口氏編)の「人文研研究叢書8号」に紹介された内容によると、横田恭平・丁未子・堀田野情・別府三郎・中井はじめ・望月左呂女・金子秀雄・山川百合子の諸氏が綿を題材とした詩をつくっていた。内3編を紹介。

微笑む棉 堀口野情

ここから ずっと
遠くまで
白一色の
棉畑
嬉しさこめて
見渡せば
棉も微笑む

不作 望月左呂女

すくすく育ち行く綿の若木が
畠一ぱいに青葉を拡げ
私たちに大きな希望を抱かせた
日曜日が来ると村人たちは
名画でも見に来たように
棉の出来栄えを見て
村一番の良作とほめてくれた
天運はどこで どんな
まちがいを起こしたのだろうか
大きな綿の実がころころ
目立って来た頃から
旱りがつずき 花の莟みが
ぼろぼろ落ちだした
綿の精気も人間の心も
空気の抜けた風船玉のように
日増しにちじんでいった
その頃 六年もの間をおいて
末っ子が誕生した
百姓はバクチだよ
今年は金で買えない
たからをもうけた
日焼した顔をくずして
赤子を抱いて夫はわらった

四月 別府二郎

四月 ….
棉の収穫(とりいれ)の始まる月だ
金廻りが急によくなる月だ
だから貧乏人が身分を忘れ
金の有難味も苦しかった貧も忘れて
金持ちの真似をしようとする
可愛想な虚栄心を起こす月だ

 綿花はオウロ・ブランコとよばれたように、開花期の花が白色から鮮やかな赤い色に代わっていき、その花が落ちて緑色のボールが太っていき、やがて弾けて真っ白な繊維が現れる、という風に美しく華やかな農作物である。
 と同時に、旱魃・降雨過多などの天候と病虫害の被害をうけやすく、また相場の変動が激しいため収益が不安定であること等、喜びも悲しみも綿とともにある、といったふうに詩人たちの詩情に訴える要素が豊富であったとおもわれる。

◎経済使節団のブラジル訪門

 サンパウロ州の日本人綿作者への最大の朗報となったのは、1935年5月平生釟三郎(ひらお はちさぶろう)を団長とする経済使節団のブラジル訪問である。
 一行の氏名は次の通りである。
団長 平生釟三郎 川崎造船
団員 関佳三 東洋紡
伊藤竹之助 伊藤忠
渥美育郎 大阪商船
岩井尊人 三井物産
奥野つよし 三菱商事
事務長 山崎荘重 元領事
団医 山口寿 医学博士
他に随員9名
 当時の日本は原綿を主としてアメリカ・インド・エジプトから輸入していた。1932年には日本輸入綿花のうちアメリカ綿は71%を占めるに至ったが、日米間の情勢軋轢から新しい輸入先としてブラジルからの綿花輸入を促進する必要があった。
 平生氏の構想は1932年にはサンパウロ州綿花生産の46%を占めていた日本人移住者の綿作をさらに拡大し、これを日本に輸出し日本人移住者に有利な基盤作りを可能とするものであった。
 使節団の滞泊中はブラジル政府と産業界と接触し、その間米国の執拗な妨害もあったが、ブラジルの綿花事情の調査を重ね、ブラジル政府に13か条の改善勧告書を提出した。その内容の要約は次のようである。
1.綿花収穫の迅速性
2.雨後また朝露の湿気について 乾燥後に収穫
3.未熟綿汚損綿を選別
4.実綿の品質に応じた等級の設定
5.繰綿工場の監督強化と技術の向上
6.表装規格の全国統一(一俵の標準重量180キロを含む)
7.精綿品位の等級格付には米綿ユニバーサルスタンダード採用
8.毛筋の格付にオフィシャルスタンダードに準ずる
9.綿花取引所における等級間の格差は市場相場の格差設定
10.政府は綿花相場を国際的水準に平衡するよう監督
11.農業金融機関の設置
12.綿花の輸出税の廃止
13.正確詳細な綿花統計の整備
 使節団は帰国後ブラジルの原綿輸出の潜在力の大きいこと、その綿花は半分以上が日本人移民によって生産が行われていること等を報告した。
 この報告が刺激となって日本の財界のブラジルに対する関心が高まり、1936年日伯綿花株式会社が設立され平生釟三郎が社長となった。その現地会社のブラスコット社はサンパウロ州5ケ所(マリリア、ビリグイ、アルバレス・マシャード、マルチノポリス、サンジョン・ダ・ボアビスタ)の自家繰綿工場を設立した。
 操業は1937年シーズンから始まり、1941年には自家工場以外に6ケ工場を経営し、当時の米国資本系の大手綿花会社Anderson Clayton、Sanbra、Esteves、Mac Fadden等と伍して業界では日本資本の綿花会社としてリーダー的地位にあった。
 平生使節団の訪伯のあとブラスコット社の他三井物産、南米綿花(東洋綿花の現地法人)、兼松商店、伊藤忠なども綿花取引のためブラジルに進出。またブラ拓綿花会社も繰綿工場を経営。太平洋戦争で中断されるまで数年足らずながら活動した。

 日本に輸出されたブラジルの綿花は1937年には60万俵(11万トン)に達した。また平生使節団のブラジル綿花視察により活気ついたサンパウロ州の日本人移住者の綿作栽培は拡大を続けた。
 サンパウロ州の綿花生産量は1933年まで年産3万トン迄であったが、日本人移住者の綿作を主とした増産が推進力となり、1934年には10万トンに増加、その後1937年には20トン、1940年に30万2千トンと飛躍を続け、1944年には年産45万5千トンの記録をつけた。
 ブラスコット社はサンパウロ州以外にパラナー州にも進出、カンバラ―市のパラナー綿花有限会社(上野米蔵グループ)と共同経営で、パラナ―州の綿花の取り扱いも始めていた。

◎太平洋戦争と敵性資産凍結

1940年代、米国製の繰綿機械

 1941年12月の大戦勃発後の情勢逼迫により、ブラスコットの営業活動に支障を来たし、1942年綿花シーズンはビリグイ、アルバレス・マシャード、マルチノポリスの3ケ工場のみの操業となった。1937年の創業以来、5ケ工場が全部操業したのは1941年までの5年間であった。
 1942年3月11日付けブラジル共和国法令4166号発布により、日本・ドイツ・イタリア国籍の法人自然人の資産は接収凍結されることになりブラスコットはその対象となった。
 1942年3月30日ブラジル政府の官憲カイオモンテイロ氏とデオダットルイス氏がブラスコット社監督に任命される。
 1943年3月31日予備役陸軍中佐アグネロデソウザ氏が着任し、会社管理並びに事業一切は同氏に法的引継ぎされた。
 ブラスコット社の現存する庶務記録書によれば、1941年から1943年にかけての敵性資産凍結の前後の逼迫した状況について次のような項目の記録がある。
 繰綿工場の一部閉鎖または第三者へ賃貸し、ドミンゴス・デ・モラエス街の社員クラブの解散と閉鎖、クバトン街の支配人社宅を閉鎖、リオ駐在事務所の閉鎖、幹部の外交官交換船での帰国、社員数名の帰国につき次回交換船の船待ちでリベルダーデ広場のろうそく屋の二階で待機、会社の権限をブラジル人およびブラジル帰化人への譲渡、法定管財人への引継業務
等である。
 敵性資産凍結令により、日本人法人自然人の綿花関係の資産は次の通りである。
・南米綿花会社
・ブラ拓綿花会社
・東洋綿花
・ブラスコット社
 資産凍結された当時の状況について各社の役員従業員の受け止め方は、戦争という異常な事態とはいえ、それまで営々として築き上げてきた企業と生活基盤が一挙に消滅することになり、途方に暮れた状況に陥ったことは想像に難くない。

◎敵性資産解除

1960年代、サンパウロ州グアイラ郡、麻袋詰めの実綿在庫

 1951 年より資産解除が始まったが、凍結されたまま解除を待たずそのまま清算消滅していった企業および個人資産が多かった。
 ブラ拓グループの内ブラ拓銀行は、その業務は資本の内国化を図っていた南米銀行が引き継いだ。ブラ拓製糸は1951年返還され今日にいたっている。ブラ拓繰綿工場(複数)は清算されたまま再建されることはなかった。
 戦時中奥地の農業地帯の日本人移住者の活動の特徴として、コーヒー農家は減少傾向にあったが、綿作農家は自作農借地農を問わず、日本移民の全農家に対する比率は1932年の14%から1937年には39%となり、その後戦時中はほとんど移動がなかった。平生構想に刺激され綿花栽培に従事した日本移民は、戦時中もその活動を維持したことを示している。
 戦前に繰綿自家6工場を経営していたブラスコット社は1951年10月25日付けで資産解除をうけた。但し5ケ工場の内返還された繰綿工場はマリリア工場のみであった。この工場の名義が個人名義となっていたため凍結後も清算されずそのまま残っていたもの。あとの4ケ工場は米系の綿花大手会社エステべスの手に渡ったというが、資産凍結から解除までの営業経理関係の一切の記録書類が存在しないのでその経緯は不明のままである。
 ブラスコット資産解除後のマリリア繰綿工場は、マリリア付近の農地が綿花連作により表土流失ともともと砂質土壌で有機質不足により綿作が激減していたため、綿花事業が再開不可能となっており、工場倉庫の賃貸で維持費を賄っていた。
 1955年サンパウロ州北部にミナス州に近いグアイラ市に戦前からあった伯人経営の繰綿工場を購入(連邦貯蓄銀行の3年年賦)、すでにあった繰綿機一セットにマリリア工場のコンチネンタル式繰綿機一セットを加え、2セットの繰綿工場としてブラスコットは13年振りに綿花事業を再開することになり、戦前ブラジルの綿花に着目した平生構想の再現となった。
 日伯綿花株式会社は1957年に大日本紡績(現ユニチカ)に吸収合併され、現地会社ブラスコットは大日本紡績によるブラジルの紡績事業進出のための足掛かりともなった。
 1966年マリリアの旧工場を売却した資金でグアイラ郡に312ヘクタールの農場を購入、さらに1974年196ヘクタールの農場を購入、合計508ヘクタールの農地に綿作を主体に耕作を行った。
 農場で綿花栽培し、繰綿工場で原綿生産、紡績工場で綿糸生産という一環事業を展開したユニチカグループは業界から注目されたものである。

サンパウロ州の棉畑、1980年代

 その後種々の状況変化によりサンパウロ州の綿作栽培が減少を続けるなかで、ブラスコットは隣接のミナス州とゴイアス州から実綿の集荷により繰綿事業を続けたが、大手綿作農家が農場内に繰綿工場を建設し自家生産の綿花を繰綿して、紡績会社に販売または輸出する経営方式に変わっていったので、従来の繰綿事業は実綿集荷が難しくなった。

 ブラスコットはこれらの事情を考慮の上、2005年シーズンを最後として繰綿業を中止した。1936年平生構想で始められた綿花事業は2005年で70年の活動に幕を閉じたことになる。
 ブラスコットは多角経営の一環として1980年代よりグアイラ農場にゴム園を造成してきたが、これが経営主力となり現在に至っている。
 他にマット・グロッソ州に1974年、6千ヘクタールの土地を購入、30年間にわたり牧草造成し牧牛4千頭を持つに至ったが、ルーラという男を首班とするPT政権は土地なし農民に分譲するためこの牧場を接収した。場内に学校・教会・住宅を作り、電力配線し橋をかけ、地元の経済活動と福祉に貢献したが、PT党の選挙票集めの政治的作為で接収されたものである。

◎パラナ州の綿作

 イギリスは米国とインドから原綿を輸入していたが、米国では南北戦争のあと綿花栽培農場が破綻しており、植民地であるインドの解放運動による綿花生産が不安定になったため、それ以外の安定した綿花供給地として、ブラジルへ1923年にイギリス財界人で構成された経済視察団を派遣して綿花生産の調査を行なった。
 北パラナ州でコーヒーの間に間作されていた綿花をみて有望と判断し、パラナ州政府と交渉の結果51万5千アルケール(124万6千ヘクタール)の森林を購入、北パラナ土地会社を設立した。その後この土地の分譲に参加する日本人移住者は、コーヒー・陸稲・綿花の栽培を拡大していった。
 サンパウロ州日本人の落武者と評された人々もパラナ州へ多く移動して来た。特にサンパウロ州のコーヒー植付制限令のためパラナ州へ移動して来た日本人で綿作に従事した人々が多かった。
 パラナ州の綿花栽培はその後も拡大を続け、コーヒーが霜害で被害をうけたのちなどは綿作が激増する傾向が激しかったため、サンパウロ州と並んで南伯綿生産の大きな柱となった。
 パラナ州生産の綿花地の土質は粘土質の赤土(terra roxa)であるため、綿花ボールが開いた後と収穫時の作業中、赤土の埃が綿花に染み込む傾向にあり、その原綿は薄赤い色合いを持つようになったことが品質上の問題として残った。(つづく)