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《記者コラム》韓国人移民秘話―コチア産組が初入植のお膳立て

韓国移民が入植した農場での一こま(『Imigração Coreia Brasil 45 anos』より)

韓国移民が入植した農場での一こま(『Imigração Coreia Brasil 45 anos』より)

 「ブラジルに来た初期の韓国人移民を、実は日本人移民がお膳立てしたという秘話もあるんですよ」と、サンパウロ在住の石井久順(ひさのぶ)さん(82、北海道、1960年渡伯)から一本の電話が入った。ニッケイ新聞で今年1月28日から2月26日にかけて連載された『アジア系コミュニティの今=韓国編』を読み、思い出されたとのことだった。
 公式の第1回韓国人移民が来伯するのは1963年2月。石井さんが振り返るのはその前年の事だ。韓国タクシー連合会会長だった故パク・コウワンさん(ソウル出身・当時60歳前後)が、今後移民する韓国人の入植地を視察するため、来伯した時の事だった。
 当時、ブラジルにも韓国にも両国の大使館は設置されておらず(注1)、韓国出身のパクさんは、日本でビザを取得することもできず、最終的に国際カトリック連合会を通じてビザを取得できたような状況だった。

石井久順さん

石井久順さん

 1962年、船で来伯したパクさんを応対したのが、コチア産業組合理事の相川政男さん(1910~、故人、注2)だった。当時のコチア産組の井上忠志ジェルバジオ理事長がカトリック教徒で、ローマ本部から日伯司牧協会(PANIB)を通じて、パクさんを世話してほしいとの要請を受けた。
 それで、井上理事長の下で働き、幼少期に韓国で育ち、カトリック教徒でもあった相川さんが、直接応対することになった。移民したばかりの石井さんは、相川さんの運転手として同行し、当時の事を鮮明に覚えている。
 コチア産組はパクさんの案内のために費用を出し、将来性のある土地を一緒に視察し、最終的にパラナ州ポンタ・グロッソ近郊にあるサンタマリア農場が選ばれた。パクさんの帰国後、1966年に韓国カトリック教会が仲介して、パラナ州パラナグア港で下船した53家族313人の韓国人移民が同農場に向かった。
 同農場は、韓国人移民の入植では、最初の成功例となった。入植者は農場での仕事を習得し、町では鳥類(家禽)飼育業者として知られるようになり、組合も形成された。
 第1回韓国人移民が到着してからは、複数の農場への入植が試みられたが、土地購入費を持ち合わせていなかったり、農場を取得しようとしても書類や法律上の問題があったり、成功例がなかった。多くが農業経験のない移民だったため、時を待たずして町に出て商売を始めるようになっていたとのことだ。
 石井さんが特に印象に残っているのが、相川さんたちがサンパウロを代表する料亭『本丸』で、パクさんを接待した時の話である。戦前の日本人移民には、韓国を「朝鮮」と呼ぶのが一般的だったため、石井さんもその呼び名を使用していた。すると、パクさんは、「今は「朝鮮」ではなく、「韓国」と申します」と、嬉々として皆に諭したという。
 決して怒っていたわけではなく、その時代らしい逸話だった。パクさんはとても体格が良く、日本語も不自由なかったと、石井さんは回想する。
 戦前戦後、そして現代でも、日韓間はとかく不穏な話題が持ち上げられがちである。しかし、いつも気になる隣人であり、どこかで結びつきながら両国は発展を遂げてきた。そんなことを思わせられるブラジルならではの日韓移民小話である。(大浦智子さん寄稿)
※注1=1962年にリオ・デ・ジャネイロでラテンアメリカ最初の韓国大使館が、1965年に韓国のソウルにブラジル大使館が設置された。両国の外交関係が樹立されたのは1959年。
注2=長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)出身。1927年(昭和2)7月、「サントス丸」で着伯し、サンパウロ州アチバイアで養鶏、果樹、じゃがいも栽培に従事。1954年(昭和29)、コチア産業組合理事に就任。拓殖事業などに尽力。1977年勲5等瑞宝章受章。(『日本ブラジル交流人名事典』)