さて、私はサンパウロからサンジョゼ・ドス・カンポスまでの間のドゥットラ街道沿線にあった企業を訪問して歩き、帰りには同じように逆の方の企業を回りました。すでに連絡済みのお客さんのところには早く行きたかったので、会社には毎日一番先に着きました。
自社製造布地のデニムでジャケットやジーパンなどの他、大型製造の縫製工をも担っていたイツー市のサンペドロ紡績工業と契約を結ぶことに成功しました。サントスではマク・チャドとか、他にも中小企業何件かがお客になってくれました。
そしてサンジョゼ・ドス・カンポス、パウリーニア、クバトン地方の各製油工場で利用されていた安全装具の修復作業も請け負いました。
布地の洗い加工/ムラ感加工が現れた時、私はあるポルトガル人がその加工法を把握していることを知り、これを学び修得するためにリオ・デ・ジャネイロ市まで行きました。
その方は天使のような広い心の持ち主で、まったく身も知らない私を朝一番のコーヒーを準備して出迎えてくれ、お昼にはおいしいフェイジョアーダをご馳走して下さり、一円も取らずに私に布地の加工方法を教えてくれたのです。
あの優しい、温厚な接待は一生忘れることはありません。
おかげでサンパウロ中心地の卸業者がほとんどお客さんになってくれました。
デニムの染色加工やビンテージ化加工など、常に新しい流行が来るのでそれについていくのも大変でしたし、会社も仕事過剰になってきていました。
会社には4人の代理人がいました。私はそれまでいつも自営業でやってきていましたので、再び自分でやろうと家庭用クリーニング屋を買いました。
第17章 揺るぎない一心
クリーニング業界で沢山の方に出会い、多くの友達が出来ましたが、その中の一人のマリオさんがパートナーシップを提案し、一緒に事業をスタートさせました。そして彼がクリーニングでデニムの加工作業を導入しよう、と言い出しました。でも、それには工業機械が必要であり、それを購入する資金がまずなかったのです。
マリオさんの気持ちは強く、銀行から借りようと言い出しました。そんな話を聞いていた父は国の経済危機やインフレなど国の情勢を読むと銀行に頼ることは考え直した方が賢明と助言し、2か月ばかり待つようにと言いました。
2か月後には父がお金を貸して下さり、資金を作った私達は、1985年の5月25日に私たちは父が貸してくれたお金で資金を作り、小さな工業用ランドリー/加工所をスタートしました。
私の中にはあの、小さな時から抱きはじめた「父を幸せにしたい」という気持ちが増々大きくなっていくのを感じるのでした。
時間の許す限りに、おいしいレストランで昼食を取ったり、沿岸地帯にあるグァルジャー市まで連れ立っては海の幸をお腹がいっぱいになるまで味わったりしました。
サンパウロから離れる事が出来なかった時には、リベルダーデのレストラン街で日本料理店を中心に食べ歩いたりしました。