そして茨城県立明野高等学校に入学。同校柔道部顧問との出会いが人生の転換期だったという。
「顧問の先生が本当にやる気の引き出し方が上手な人だった。あの時期があったから今の自分があると今でも感謝しています。頭ごなしに怒ったりせずに、気分に合わせた指導をしてくれる人でした」と振り返る。
「当時、柔道部は全員坊主頭が決まりだったものの、自分は坊主が嫌でなかなかしなかった。でも2年生になる時に柔道部のキャプテンを任されることが先生から伝えられ、次の日に直ぐに坊主にしました。誰よりも早く道場にきて掃除、3時間の稽古、2時間筋トレ、これを月曜から日曜まで毎日行いました。不思議と苦じゃなかった」
さらに、「今思うと先生の指導と引き立て方が本当に上手かったんだなと思います。あの恩師がいなかったら、多分柔道は高校で辞めていたし、今の自分は無いとおもいますね…」とブラジル代表五輪選手になった今、感慨深そうに語った。
高校卒業後、国際武道大学に入学。1年生の時に関東学生大会で2位に入賞した。本来なら国際大会への登竜門「講道館杯」の全日本ジュニア大会へ出場できるはずだったが、ブラジル国籍だったことが理由で出場権が剥奪されたという。
「両親共にブラジル国籍。その流れで自分もブラジル国籍。国籍は20歳になると選ぶことができるけど、当時はまだ19歳だったので、選択権がなく自動的に講道館杯の出場権が無くなりました。その時は、仕方ないと思いつつもショックでしたね。その国籍の問題もあり将来のことも不安になりましたね。日本で柔道をしてきた人は引退後、教師や警察など公務員になることが多いですが、ブラジル国籍だと公務員になれないのでお先真っ暗で悩んでいました」と国籍の壁に当たったことを語る。
そんな国籍の問題で悩むユージ氏が渡伯したきっかけは、ブラジルから国際武道大学に交流試合に来ていたクラブチーム「アカデミア・メルカダンテ(Academia Mercadante)」から当地での試合出場を誘われたことだった。
誘われるままにブラジルに1週間滞在し、柔道ジュニアクラス大会に出場し優勝した。
「大学にブラジルのチームが国際交流として練習に来ていた際、そのチームに国籍の問題で公式試合に出場できない事を伝えると、『ブラジルの公式試合にでてみないか?』と誘われました。そして1週間ブラジルに滞在しジュニア大会に優勝。それがきっかけで、『どうせ日本で活躍できないなら一か八か、ブラジルで挑戦しよう!』と決断しました。大学を中退し、借りていた奨学金など両親に払ってもらい迷惑をかけました。ですが、両親は自分が柔道や将来で悩んでいた事を理解していたので、全面的に後押ししてくれました」と感謝する。
そして、ユージさんは改めてブラジルに渡り、柔道有名選手を数々排出するブラジルの名門クラブチーム「スポーツクラブ・ピニェイロス」の入会テストを経て合格。14年に同クラブに所属することとなった。当時はポルトガル語の読み書きがほぼできなかったため、サンパウロ市に住む姉2人を頼りきりだったという。
「言葉には本当に苦労しました。実家では両親はポルトガル語で話して、自分は日本語で返す会話だった。日常会話の聞き取りぐらいできるだろうと思っていましたが、現地の人は話すのは早いし地方の訛りもあって、聞き取りや会話に本当に苦労しましたね。ポルトガル語の書類がきたら全部姉に丸投げでした」と恥ずかしそうに語る。(続く、淀貴彦記者)